前回では倭寇と勘合貿易の関係について学んだね。
勘合貿易と関係している倭寇は「前期倭寇」だということも分かったよね。
今回は「前期倭寇」と「後期倭寇」の違いについて分かりやすく説明するよ。
前期倭寇とは?
前期倭寇とは、鎌倉時代末~南北朝の動乱期の頃に、
九州地方の壱岐・対馬・肥前松浦の土豪・商人・漁民を中心に活動した武装集団のことを言うよ。
倭寇は主に米を奪ったり、人々を捕虜として連れ去ったりしていたんだ。
また捕虜として連れ去られた家族を助けるために倭寇に入ったという例もあり、
実際に倭寇に入ったことで連れ去られた家族と再会することができたという記録も残っているんだ。
倭寇は主に高麗や中国沿岸部を荒らしまわっていて、
高麗からは倭寇を禁止するようにと日本に使者が来たこともあったんだ。
高麗の使者が来たとき、倭寇の中心地である九州地方は戦乱の最中であったから、
うまく倭寇を取り締まることができなかったんだ。
その後、1392年、高麗は滅亡してしまう。
高麗が滅亡してしまった原因の1つとして倭寇の荒らしもあげられている。
この前期倭寇は日明貿易の開始によって、いったん落ち着くんだ。
日明貿易については前回ここで説明しているから、気になる人は読んでみてね。
後期倭寇とは?
後期倭寇とは、
勘合貿易が廃絶した16世紀半ば、明の海禁政策に反して中国南部で密貿易を行った武装貿易集団のことをいうよ。
応仁の乱が終わった後、室町幕府は衰退してしまい、
貿易の実権は堺商人と結んだ細川氏、博多商人と結んだ大内氏が握るようになったんだ。
細川氏と大内氏は激しく争うようになり、
1523年には寧波の乱を引き起こしてしまうんだ。
寧波の乱は、大内氏が勝利し、貿易は大内氏が独占するものとなったんだ。
しかし、1551年に大内氏が滅亡すると、貿易をする人がいなくなり、勘合貿易も断絶されてしまった。
この勘合貿易の断絶後、再び倭寇の活動が盛んにみられるようになったんだ。
この後期倭寇の構成員には日本人は少なく、大部分は中国人で構成されていたんだ。
主に彼らは東シナ海、南洋方面で活動しており、主に、日本の銀と中国の生糸の交易を中心とする密貿易に携わっていたんだ。
しかしこの後期倭寇も終わりを迎える。
1588年、豊臣秀吉が海賊取締令を発し、後期倭寇は見られなくなったんだ。
この後期倭寇は、北方遊民の侵入とあいまって、明滅亡の一因となったと言われているよ。