承平・天慶の乱が発生した平安中期ごろから、徐々に「武家」「武士」が台頭していく。
みんなご存知の通り、平安時代の後にやってくる鎌倉時代は武士の世の中だよね。
つまり平安時代は末期に向かうにつれて、次第に武士を中心とした戦乱の世の中になっていく、というわけだ。
今回見ていく前九年の役(と、次回説明する後三年の役)では、後に鎌倉幕府を築き上げていくことになる「源氏」が主人公だ。
詳しく見ていこう。
前九年の役は9年じゃない!?
前九年の役っていうからには、9年間戦争が行われてたのかな?って思うよね普通。
しかしなんと前九年の役は正式に言うと「奥州十二年合戦」って名前で、1051年から1062年の約12年間行われた戦争なんだ。
実は史料によって、「奥州十二年合戦」としているものと「前九年の役」としているものがある。
昔の歴史書の時点ですでに混乱が起きてるんだよね。
どうやら「前九年の役」としている史料は、次回見ていく後三年の役(1083年~87年)とごっちゃになって
“1051年から1060年が前九年で、1060~1062が後三年、合わせて奥州十二年合戦!”と勘違いした説があるらしい。
みんなはとにかく、
「前九年と後三年の間には時間差がある」ってことを頭の片隅に入れておいてほしい。
前九年の役は誰と誰の戦争?
前九年の役をしっかり理解するためには、まず誰と誰が争ったのかってのを明確にしとかないとね。
この戦いをものすごくシンプルに見ると、
朝廷(源氏)VS安倍氏
という構図になる。
朝廷側の将軍だったのが源頼義、これに対して安倍氏側のボスだったのは安倍頼時だ。(のち息子の安倍貞任)
戦争の後半になると、頼義の要請で清原氏という勢力が朝廷側に加わることになる。
図にするとこんな感じだ。
詳しく見ればこのほかにも登場人物はいるけど、前九年を理解するのにはこれでOK。
ちなみに安倍氏は東北地方の豪族で、かなり大きな勢力を誇っていた。
安倍氏が朝廷に背いたことが発端
朝廷と安倍氏の対立は、安倍氏が朝廷に対して反抗的な態度をとったことが原因だとみられている。
当時、現在でいう秋田県あたりを除いた東北地方は、ほぼ安倍氏の勢力下だった。
そんな安倍氏は調子に乗っていたのかなんなのか、義務だった朝廷への貢ぎ物を送らなかったりして、前九年の役以前にもちょこっと揉めたことがあった。
朝廷に対して反抗的な態度をとる安倍氏を見張るべく、東北地方を担当する軍部(鎮守府)の将軍として源頼義が就任した。
当時安倍氏の筆頭だった阿倍頼時は、頼義の将軍就任後は目立った反抗は行わなかった。
・・・んだけど、頼義の将軍としての任期が終わる寸前になって、頼義の部下が安倍氏に襲われたという情報が入る。
部下は自分が襲われた理由について、「僕の娘を嫁にくれって安倍貞任からお願いされたんですけど、お前なんかに娘はやれん!って答えてやったんです。多分それを逆恨みしてるんだと思います・・・」と伝える(ガセ説あり)。
これを受けて頼義は貞任に事情聴取をするため「出頭しろ!」と命じるも、来ない。
キレた頼義は安倍氏に対して軍を送り、戦争が始まった。
一進一退の攻防からの援軍・清原
その後の6年くらいの間で、頼義率いる朝廷側は安倍氏のボスだった安倍頼時を殺害する戦果をあげた。
一方、頼時の死を受けて新・安倍氏のボスとなった息子の貞任は、頼義の軍をボコボコにして撤退させる戦果をあげた。
まあ一進一退の攻防ってわけだ。
頼義は「このままだと埒あかないな・・・。早いとこ安倍氏に勝利したいな」と考え、秋田の豪族・清原氏に声をかけ援軍を要請する。
交渉の結果、清原氏が朝廷軍に加わってくれるとなった。
そして頼義は清原氏の将軍と協力して安倍氏を攻め、見事撃破することに成功した。
この戦いで安倍氏は滅亡することとなった。
戦いの意義
前九年の役で東北地方の情勢は大きく変わることになった。
東北地方最強だった安倍氏は居なくなった上に、清原氏は安倍氏との戦闘で功績をあげたことで、
清原氏が東北地方の覇権を握ることになった。
まあこれが後三年の役につながっていくことになるんだけどね。
一方源頼義の方も、制圧まで時間はかかったものの、「朝廷に背いたやつをやっつけた」という功績が大いに認められ、
その地位を爆上げすることに成功した。
結果的にこれは「源氏(正式にいうと清和源氏)」の権威を高めたことになり、のちに武家の名門一族として名を馳せることになる。