ヤマト政権をわかりやすく。ヤマト王権と大和朝廷の違いについても。

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古墳時代を学ぶなら絶対に外せないのが、「ヤマト政権(王権)」について。

 

このヤマト政権がね~、けっこう分かりにくいんだわ。

言葉自体が難しくてイメージしにくいものも多かったり、そもそも学者間でまだ論争中の話題があったり。

 

ヤマト政権の呼びかたについて・・・なんていう細かいとこまで議論されてたりね。

 

今回はそんなヤマト政権について詳しく見ていくよ。

※(この記事では一貫して「ヤマト政権」という表現をさせてもらうね。表現の差については本文で後に詳しくやるよ。)

 

ヤマト政権?ヤマト王権?大和朝廷?

 

まずね、ヤマト政権って検索かけた時に↑のタイトルみたいな「表記の違い」がいっぱいあってめちゃくちゃ分かりにくい。

どれか一つに統一してくれよと思うんだけどね・・・。学者の方々にも譲れないところがあるんだろうね。

 

2018年現在では、「ヤマト政権」「ヤマト王権」という表現が一番無難。

政権と王権はホントに微々たる違いなんでどっちでもいい。

 

で問題は漢字表記の「大和朝廷」のほう。

この表記は最近では下火になってきてる。

 

「朝廷」という表現が、学者の間で「まだ古墳時代は朝廷と呼べるような状態じゃなくね?」という話になっているんで、あんまり使われなくなってきた。

 

まあこれは正直マニアックすぎる差なんで、受験生のみんなは「ヤマト政権」か「ヤマト王権」で覚えておこう!それで問題ない。

 

 

ヤマト政権とは

 

「ヤマト政権は○○年に出来た」とハッキリ言えるような史料は今のところ見つかっていない。

今もヤマト政権については謎が結構多い部分なんだ。

 

ただ現在の研究では、「ヤマト政権のはじまり」は3世紀後半あたりだとされている。

ヤマト政権の誕生~3世紀後半から4世紀ごろまで~

 

ヤマト政権は邪馬台国(卑弥呼と関係があったよね)がベースになっていると考えられている。

 

奈良県に纏向(まきむく)遺跡っていう遺跡があるんだけど、この遺跡で日本各地の土器が出土していることから「強大な力を持った政権が奈良県にあった」ということが分かるんだね。

 

ただヤマト政権はある一つの勢力が絶対的な権力を持っていて、みんなそれに服従する・・・というような政治体制ではなかったみたいなんだよね。

これを裏付けているのが、“古墳”の存在。

 

みんな多分“前方後円墳”は知ってると思う。

こんな形のやつ↓。

 

前方後円墳はめちゃくちゃ簡単に言うと「権力者のお墓」だね。

 

この前方後円墳で一番古いのは奈良県にある箸墓古墳。

つまり「偉い人が死んだら前方後円墳で埋葬」というルールで作り始めたのはおそらくヤマト政権なんだわな。

 

でだ。この前方後円墳が、時代を経るにつれて奈良県だけでなく地方各地でも見られるようになった。

しかも奈良県の古墳と同じような大きさで。

 

これはつまり、「地方の権力者とヤマト政権の格がだいたい同じで、かつヤマト政権の風習が地方に広まっていた」と捉えることができるよね?

 

つまり3世紀~4世紀ごろまでは、奈良のヤマト政権が中心となって、地方の権力者(豪族)と同盟を結ぶ体制だったと考えられている。

 

 

ヤマト政権の権力拡大~5世紀~

 

4世紀末ごろまでは地方の権力者とヤマト政権は「同盟関係」だったわけだけど、5世紀にはいるとその様子が変化し始める。

 

まず古墳だけど、5世紀前半から5世紀末にかけて、次第に地方に前方後円墳が作られなくなっていった。

これは言い換えると「ヤマト政権の権力がでかくなって、地方豪族がそれに服従する体制」に代わってきたということになる。

 

これを裏付けるように、ヤマト政権にはこの時期「ワカタケル大王(倭王武とも)」と呼ばれる、ものすごい権力者がいたことが出土品やら史料やらで分かっている。

ワカタケル大王は武力で地方を服従させていった可能性もある。

 

まあ簡単に言えば5世紀でヤマト政権の権力が大きく増大した、というわけだ。

これまでのような同盟関係ではなくてね。

 

 

ヤマト政権の終わり~6世紀~

 

ただワカタケル大王に見るような、「ヤマト政権の権力の巨大化」は、当然だけど地方の権力者から反発も受ける。

 

このころの古墳を見ると、地方に前方後円墳のような巨大な古墳は作られなくなって、群集墳という小さな古墳が作られるようになった。

これは、地方においてごく一部の強力な権力者が少なくなって、そこそこ権力を持った人が増えてきたという状況を示している。

 

ヤマト政権の中心地奈良でも、地方と同じようにデカい前方後円墳が作られなくなっていった。

どうやらヤマト政権の権力巨大化が原因で、内輪もめ的な問題が起きて一時的に衰退したらしい。

 

そんなこんなで動乱の時代になったわけだけど、6世紀末に推古天皇や蘇我馬子、厩戸皇子(聖徳太子)らがきっかけとなってヤマト政権は再び力を取り戻すことになる。

 

さらに、これまでの「ヤマト政権とそれに従う地方豪族」というスタイルから、「地方豪族を廃してヤマト政権に権力を集中する(もっと言えば天皇中心の律令国家)」に代わっていくことになる。

 

 

ヤマト政権が一体いつまでだったのか、ということについてはこれまた明確には決まっていない。

ただ、一般的には“律令国家”に生まれ変わった大化の改新までヤマト政権は続いた、と考えられているよ。

 

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