政党内閣を復活させた加藤高明が病死してしまい、その後総理大臣になったのは若槻礼次郎。
この方は学業でとんでもない天才だった事で知られていて、家が貧乏で学費が払えず中学校を辞めているのに、結局帝国大学の法学部を首席で卒業しているんだよ。
感動するエピソードだね。
そんな若槻礼次郎が総理大臣になったのはまさに戦後恐慌と関東大震災の後に起きた金融恐慌の頃。
日本は第一次世界大戦で空前の好景気になったんだけども、戦争が終わると泡のように景気は後退。
日本は軍事産業が占める割合が大きかったから戦争で儲かるんだけども、国民の購買力は全然上がっていないのに物価が上がって大変だったんだ。
それで1923年に関東大震災がくるでしょ?関東大震災では関東の工場や事業所がほとんど倒壊しちゃってさ、銀行がこういった工場にお金を貸してたんだけど、もちろんその借金は銀行に返ってこない。
だから政府が救済措置を取ったんだけど、これがまた大変だったわけだ。
ちょっと若槻礼次郎について重要項目をさらって再び震災手形について見ていこうか。
若槻礼次郎内閣の政党
第一次若槻内閣 → 1926年1月~1927年4月 憲政会
第二次若槻内閣 → 1931年4月~1931年12月 立憲民政党
この違いは大学受験の日本史でも要チェックポイントだから覚えておこうか。
まず若槻礼次郎は大蔵官僚から桂・大隈内閣の時に蔵相を務めているよ。
さっきも話したけど、関東大震災で銀行が融資していた工場や事業所がほぼ倒壊。
銀行は貸してたお金が返ってこない事態に陥っちゃったから、政府は「震災手形割引損失補償令」を公布してさ。
日本銀行から特別融資を行ったんだよね。その額、なんと!4億3,082万円。
1923年に特別融資を行ったんだけど、第一次若槻礼次郎内閣が発足した時点で半分の2億680万円も残っていたの。
これはヤバイ!!
という事で、憲政会出身で昔大蔵官僚も務めていた若槻礼次郎はこの震災手形をどうにかしようと議会に法案を出すのね。
でもいつの世も大臣が失言して問題になるじゃん?
片岡直温蔵相が『中小銀行の不良貸付やばいぞ。倒産すんじゃね?』みたいな発言をしちゃってさ。
銀行の預金を降ろしまくるという取り付け騒ぎが起きてしまったんだわ。
これが金融恐慌ってわけさ。
金融恐慌は恐ろしいほどの打撃で、台湾銀行・十五銀行など大手の銀行も含めて32の銀行が休業。
休業だよ?考えられる?明日から銀行が休業したら大パニックでしょ。
でもって、若槻礼次郎は何をしようとしたかと言うと、台湾銀行を救済しようとして
日本銀行の特別融資の緊急勅令案出したんだけど、伊藤巳代治を中心とする枢密院に反対されて総辞職しちゃったんだね。
なんでまた枢密院が反対するのか意味不明なんだけど、頭の固い人達だったのか、緊急勅令は憲法違反という事で憲法を守って阻止したわけだね。
ロンドン海軍軍縮会議の全権
ちょっと時代は飛ぶけど、若槻礼次郎は
濱口雄幸内閣の時のロンドン海軍軍縮会議で主席を務めるよ。
ロンドン海軍軍縮会議ってのは、ワシントン海軍軍縮会議の延長上みたいなものだね。
ワシントン海軍軍縮会議 → 加藤友三郎内閣
ロンドン海軍軍縮会議 → 濱口雄幸内閣、主権若槻礼次郎
といった具合で大学受験の日本史は暗記しておくと良いね。
第二次若槻内閣
さっきも話したけど若槻礼次郎は1931年にも内閣総理大臣を務めているんだ。
濱口雄幸内閣が総辞職したあとだね。
若槻礼次郎はこの時、立憲民政党だから忘れずに覚えておいてね。
当時沖起きた満州事変に対して、これ以上拡大しないように方針を表明したんだけど、閣内不一致で総辞職してしまったよ。