前回は、化政文化を代表する浮世絵師の一人、葛飾北斎について見てきたね。
北斎は、富士山を描いた風景画シリーズである『富嶽三十六景』で浮世絵師としての地位を確立し、さらにはヨーロッパの名だたる画家にまで影響を与えたんだったよね。
今回は化政文化を支えたもう一人の浮世絵師・歌川広重について見ていこう。
消防士&浮世絵師だった歌川広重
広重は、江戸の定火消(じょうびけし)の息子として生まれた。
定火消といえば、町火消とともに江戸を守る大切な消防士だったよね。覚えているかな?
広重も北斎とおなじく幼少から絵が大好きで、両親が亡くなったことから定火消として家を継いだ後も画家を目指し続けた。
17歳くらいで浮世絵師としてデビューしたんだけど、その傍ら定火消としての活動も行っていた。
二足のわらじ状態だったんだね。
当初は美人画などを描いて人気を集めていた。
30代に入ると、広重は「風景画」を描き始める。
これが広重の人生のターニングポイントとなった。
ちなみに、広重は風景画のほかにも様々なジャンルの絵を描いている。
歴史画(歴史を題材にした絵画)や戯画(落書きっぽい風刺画みたいなもの)、春画、絵本や合巻の挿絵などなど。
手法も肉筆から版画まで様々だった。
前編まとめ
広重は、次回説明する『東海道五十三次』にて、“江戸で最も売れた浮世絵師”と呼ばれるまでになる。
次回は、いよいよ広重の超大作である『東海道五十三次』について見ていくよ。