前回はボアソナードの民法典論争についてやったね。
はぁ?ボアソナードなんてフランス人の個人主義野郎だろ!?こっちは儒教出身ですからね!!そもそも日本に合ってねぇんだよ!!
ってのが民法典論争だったね。結局、明治民法が1896年に公布されてボアソナード民法は旧民法と呼ばれているね。
このボアソナード民法に対してまったく逆の反応を示した日本人をお二人ご紹介します。
梅謙次郎と穂積八束
ボアソナード民法って日本の国情にすぐわないってことで、結局延期になったんだけども
断行派 VS 反対派
に分かれたんだよ。
俺ら日本史組はただ、文字だけさらうとさ。
うんうん、日本人なんだから反対して当然っしょ?
と考えがちなんだけど、もちろん賛成していた人もいたわけ。
梅謙次郎=賛成派
穂積八束=反対派
と覚えておこう。
梅謙二郎は明治時代の法学者で、主にフランスの法律を研究していたのね。(そりゃ賛成しそう!)
『家長権は封建制度の遺物である』
くらいのスタンスでボアソナード民法を支持していたんだよね。古い体制を覆そう!という気概の持ち主。
ボアソナードってあの法政大学と関係しているの知ってる?1880年に東京法学社が西園寺公望の援助でできて、ボアソナードが東京法学校に名前を変えたのね。
1903年には法政大学に名前が変わったんだけど、この梅謙次郎は法政大学の校長先生をやっていた人なんだよ。
わが国「民法の父」とも呼ばれるほどの人でさ。日本の民法に貢献した人なの。
それに対して、穂積八束!
ボアソナード民法を真っ向から否定した人物だね。
あの有名な『民法出デゝ忠孝亡ブ』(=みんぽういでてちゅうこうほろぶ)と言った人だね。
穂積八束も東大出身の憲法学者ですごい人なんだけどさ、貴族院議員だったし。
法律は個人のためよりも団体や国家のために存在する!というのが日本の初期の法律の色濃い部分だったからさ。だからフランス流の個人主義的な民法には反対だったわけ。