さて、開国から公武合体論、尊王攘夷運動までをじっくり見てきたね。
この流れがしっかり掴めていれば、頭の中がどんどん整理されてクリアになっていくはずだぜ。流れを掴む重要性をだんだん理解してきたかな。良い子だ、褒めてやろう。
今日は生麦事件の前にひっそりと起きていた対馬占拠事件について見てみるよ。
ポサドニック号の対馬占拠事件
生麦事件より遡ること1年。
1861年にロシア軍艦ポサドニック号が対馬に来てたんだよね。半年も!租借権を要求してきたわけ。
「おい、対馬貸してくれよ。」
って。冗談じゃないよね江戸幕府は外国奉行の小栗忠順(おぐりただまさ)を派遣したんだよね。
小栗忠順が対馬に到着した頃には、ポサドニック号の船長は勝手に兵隊用の宿舎まで建築中だったわけだけども。
結局、対馬藩がロシアに対抗する力があるわけもなく、江戸幕府もロシアをどうにもできない。
困った幕府は、イギリスの力を借りるのね。
イギリスの総領事オールコックにお願いして、ロシアを追っ払ってもらうわけ。イギリスは軍艦2艦を引き連れて、対馬を訪れる。
「おい、ロシア。とっととどっか行けよ」
ってね。実はイギリスも以前に対馬を訪れて占領しようとしてたくらいだから、ロシアが対馬を占拠したのが面白くなかったんだろうね。
この時に、イギリスにお願いしたのは安藤信正だよ。和宮の降嫁を成功させた人物で公武合体を進めた人だね。
イギリスに助けてもらう形になったわけだけども、イギリスとしても機会さえありゃ対馬を貰ってやろうと企んでいたくらいだから、江戸幕府としては微妙なところだよね。
裏話。
ロシアって汚いやつでね。
修好通商条約で、横浜・神戸・函館・長崎・新潟を開港したわけだけども、もちろんそれ以外の港は行っちゃダメなわけだよね。ロシアは他の国と同条件でやらなきゃいけないわけだから。
「船が壊れちゃって、航行不能だからしょうがないよね」
ってことで、対馬に救助を求めているって名目で居座るわけ。半年間も(笑)
もちろん口実だよね。
当時、イギリスがアジアに植民地持ちまくっていたから、ロシアとしては焦っていたってわけだね。