前回は、秀吉の浅井・朝倉し討伐と三姉妹の救助について見てきたね。
この戦いで大きな功績をあげた秀吉は、信長から大きな信頼と報酬を得たんだった。
こうして天下統一を目前にした信長。
ここであの大事件が起きるわけだ。
秀吉が鳥取攻めで詰まっている途中・・・。
秀吉は、朝倉・浅井氏討伐を終わらせてひと段落すると、今度は中国地方を制圧すべく遠征に向かう。
姫路城を拠点として兵を進めていったんだけど、鳥取城を攻める際に手こずってしまう。
秀吉はこの城を落とすために兵糧攻めを行った。
なんと2年間もの長きにわたって兵糧攻めを行い、何千人もの餓死者を出した。
その後は備中高松城を落とそうとしたんだけど、この城主がなかなかに頭のいい将軍。
背後には毛利氏も援護についていたため戦局が硬直。
信長に援軍を求めるか・・・と思っていたころに本能寺の変が発生。
主君を討った明智光秀を倒すべく行動を開始する。
中国の大返し
まず、争っていた毛利と急いで講和を持ち掛ける。
これが成立するや、豊臣は200㎞離れた京都へ全速力で向かう。
様々な荷物・武装を抱えながらなんと10日で京都にたどり着き4万もの軍を動員した。
これを中国の大返しと呼ぶ。
明智軍はわずか1万6000。信長ほど信用を得られていなかったために、思ったほどほかの武将から協力が得られなかった。
結果は明白だ。
光秀は戦いに敗れ、逃げる途中で落ち武者狩りに遭い、殺されてしまう。
これが山崎の戦いというものだ。
まとめ
信長の仇を討ったことで、信長家臣団の中での発言力は非常に高まった。
しかし、この後信長の家臣団の中で争いが勃発する。
身内での覇権争いだ。