前回は、日本側と明側の間の和平交渉について見てきたね。
和平交渉に当たった日本の担当者・明の担当者が、ともに「何とか穏便に和平交渉ができるように・・・。」と、“明が降伏した”“日本が降伏した”とそれぞれ違うことを伝えてしまった。
しかし、結果的に穏便に済まなかった・・・。
慶長の役、勃発。
秀吉は、明が降伏したのだから勘合貿易も行われることになるだろうと使者を楽しみに待っていた。
しかしいざ使者が来ると、「勘合貿易はできない。日本が明の属国となって貢物をするのならいいよ」と言い出す。
これを聞いて秀吉はブチ切れる。「俺が聞いてたことと違うぞ!!!なんだオマエは!帰れ!」ということで使者は追い返され、秀吉は再度出兵を行う。
しかし今度は朝鮮や明の対策もできており、なかなか朝鮮北部まで攻め込めない。
1年近く膠着状態が続いた。
突然の死
慶長の役が始まった約1年後、秀吉は突然病に倒れ、その後はどんどん疲弊していきもはや回復は見込めなかった。
死を悟った秀吉は、自分の部下であった武将たちを呼んで遺言を残し死んでしまう。
病からわずか三か月で死んでしまったので、あまりに突然のことだった。
この死を受けて、朝鮮に出兵していた日本軍は撤退することになる。
まとめ
文禄の役、慶長の役は、結果的に誰も得をしない結果を迎えた。
豊臣は、朝鮮出兵にうつつを抜かしている間に部下であった徳川家康の勢力拡大に気づかず、のちに滅ぼされることになる。
朝鮮は、明と日本の戦場になってしまったためその多くがぐちゃぐちゃになってしまい、また庶民や兵士たちの損害も大きかった。
明も多くの兵を失い、またこの出兵にかかったお金がきっかけで明崩壊につながっていく。