今日は虎の門事件について解説するよ。
原敬内閣はせっかく平民から選出されて、初の本格的政党内閣として期待されたんだけども、当時の日本は戦後不況。
さらに原敬内閣は普通選挙に対して時期尚早としていた事から、倒れてしまったね。
原敬内閣について詳しく知りたい人は、『原敬が暗殺された場所は東京駅。犯人の理由と初の政党内閣の悲しき結果。』の記事を読んでね。
その後、高橋是清、加藤友三郎と続き、次に総理大臣になったのは、山本権兵衛だ。
山本権兵衛はシーメンス事件で総辞職したけど、1923年に再び総理になるのさ。
しかし、今回は虎の門事件で辞職。
2度も事件で辞職なんて可哀想だね。悲しく山本権兵衛の虎の門事件について見て行こう。
虎の門事件とは?
それは1923年12月のことだった。
帝国議会の開院式に向かうため、摂政宮裕仁親王(せっしょうのみやひろひとしんのう)は自宅から貴族院へと車で向かうのであった。
しかし、虎ノ門を通り過ぎる頃に無政府主義者の難波大助に襲撃される。
幸いに摂政宮裕仁親王には弾が当たらなかったが、この事件は政府関係者にとっては大きな衝撃だったのだ。
ということですね。
この難波大助の襲撃の目的は、関東大震災の混乱の中で警察が社会主義者達を厳しく取り締まっていたんだよね。
労働運動なども厳しく弾圧していたからさ。
甘粕事件って覚えているかな?
無政府主義者の大杉栄と内縁の妻伊藤野枝が甘粕正彦大尉に殺害された事件だね。
関東大震災は不況が深刻化して、社会主義運動家たちも活動を激化させていたんだ。
難波大助はそういった社会の情勢に不満を持っていて、虎ノ門事件を起こしたわけだね。
もちろん難波大助は大逆罪で死刑。
山本権兵衛は責任を取って辞任したのさ。