今回見ていくのは、富永中基(なかもと)という思想家について見ていくよ。
彼は、前回紹介した郷校のひとつ、大坂の「懐徳堂」で学んだ人物なんだ。
幼少のころから儒教を批判!
中基は、大坂の醤油づくりをしていた商人の息子として生まれる。
15歳になるまで、郷校である懐徳堂で儒学を勉強していた。
中基は非常に優秀で、なんと20歳くらいで「説蔽(せつへい)」という儒学批判の本を書いてしまう。
これが原因で破門にされたとかなんとか。
その後家を出て、お寺で仏教の勉強をしたりしていくうちに、仏教に対する批判心も持ち始める。
富永中基の著書
24歳の時には『翁の文(おきなのふみ)』という著書で、儒教・仏教・神道が「俺の教えが一番サイコーだ!他二つはゴミ!」と言い争うのを批判した。
国の状況に合わせてその都度最適な教えをとればいいじゃないの、というのが中基の考えだったわけだ。
31歳の時には、有名な『出定後語(しゅつじょうごご)』という本を書き上げる。
この中で、中基は
「仏教研究してみたんだけどさ、今ある仏教の経典って、ブッダが言った言葉そのものじゃないと思うんだわ。古い経典に違う教えを勝手に加えて新しい経典がつくられる、この繰り返しなんだよ。」
という“加上説”を唱えた。
これは今までの常識をぶっ壊す内容だった。
みんなは「仏教の経典はみんなブッダが言ったに決まってんじゃん!ありがたや~」と言ってた中で、「NO」を突き付けたわけだ。
古い経典に新しいエッセンスを加えることで、「よりよく見せることができる」という人間の心理を的確に見抜いたんだ。
まとめ
中基が提唱した「加上説」は仏教界に大きな影響を及ぼした。
皆が「仏典はすべてブッダの言葉!」と信じて疑わなかったことを疑い、見事加上説を導きだしたのは流石としかいいようがない。