鎌倉時代

得宗専制政治とは? わかりやすく 霜月騒動についても説明!

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蒙古襲来については一通り学んだね。

ここからは、蒙古襲来後の政治について分かりやすく説明していくよ。

 

蒙古襲来後、幕府内部では北条氏の力がますます強くなっていっていたんだ。

 

得宗とは?

まず得宗について説明するね。

得宗とは、北条氏嫡流の惣領家のことをさすんだ。

 

得宗は、自ら執権となる以外に、実権を保ちつつ、北条氏支族を執権に任免する権限を有したんだ。

 

北条氏の力が大きくなっていった結果、すでに北条時頼が執権だった時には、

重要事項の決定の際、評定衆による合議ではなく、私邸で一門の秘密会議を開いて重要事項を決定することもあったんだとか。

 

このような傾向は、時頼の子、北条時宗の時にはいっそう顕著になり、

時宗は評定衆や有力御家人に相談することなく、

私的に一問や近臣の意見を聞いて独断的に決めていったんだって。

 

このように、得宗を中心とする専制体制が蒙古襲来後には姿を現してきたんだ。

 

北条氏の躍進とともに、北条氏の家臣の地位も向上し、

特に得宗の家臣であったものは御内人とよばれて、有力な御家人は幕府政治に関与するようになったんだ。

霜月騒動とは?

北条時宗が執権の地位にいたとき、鎌倉幕府には時宗以外に2人の実力者がいたんだ。

その2人というのが、有力御家人である安達泰盛と内管領の平頼綱なんだ。

 

内管領というのは、得宗に使えた家臣である御内人の代表格のことで、

得宗家の家政機関である得宗公文所の長官(=執事)のことなんだ。

内管領は得宗の執事として政務を処理するのみならず、侍所所司として御家人統制を担うようになっていったよ。

 

で、この2人は、勢力争いを続けていたんだけど、

その2人の調停役をしていた北条時宗が1284年に33歳の若さで死去してしまうんだ。

 

時宗の死後、この2人の対立は激化して、

頼綱は兵を集めて、泰盛一族を滅ぼしてしまったんだ。

 

この事件を霜月騒動と呼んでいるよ。

 

そして、時宗の子である貞時は父の手法を継承し、

得宗家に権力を集中させていくんだ。

 

そして、霜月騒動で専権を握った頼綱を平頼綱の乱で排除し、得宗専制政治を確立していったんだ。

 

得宗専制政治とは、

得宗及び内管領をはじめ、御内人が実権を握り、得宗の私邸で催される寄合で決済される政治のことをいうんだ。

 

この得宗専制政治の確立により、執権・連署・評定衆による評定会議は形がい化してしまったんだ。

よって、御家人の代表者が政治に関与する機会はますます減少していくんだ。

 

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