9代将軍・徳川家重が非常にアクの強い人だったことは前回話したね。
その父・吉宗は家重に見切りをつけ、自分の孫にあたる徳川家治をとってもかわいがった。
そのおかげか家治は非常に聡明で、文武両道を体現していたという。
しかし、家治は「田沼意次に政治をまかせっきりで自分は趣味に没頭していた。ダメな将軍だ!」とする説がある。
どうだったのか、詳しく見ていこう。
徳川家治と田沼意次の関係
徳川家治は、祖父・吉宗から非常にかわいがられて育ち、その中で帝王学などを学んだ。
そのため幼少のころからとても聡明だった。
吉宗は「家治がいれば安泰だな」と思っていたそうな。
で、家重が家治に将軍を譲り家治が10代将軍となる。
その後家重は病気で亡くなるんだけど、その遺言で「田沼意次を重用しろよ」と家治に伝えた。
家治はこの遺言通り田沼意次を起用し、当初は政治に励んでいた。
ところが、途中から家治は田沼意次に政治を全部丸投げして、自分は趣味の将棋に明け暮れるようになってしまった。
どうも家治は、将軍という職業にやる気が出なかったらしい。
頭はいいんだけど、将棋に没頭していたことから芸術家みたいな個性的な性格だったのかもしれないね。
詰め将棋の問題作成能力がピカ一
将軍としてはほぼ何もしておらず、政治はすべて田沼意次に任せて許可出しているだけだったから功績はほとんどない。
その代わり、将棋界ではたくさん功績を残した。
なかでも「詰め将棋」の問題を作る能力がめちゃくちゃ高く現代でも評価されている。
まとめ
家治は無能将軍だの暗君だの言われているけど、一方で田沼意次に政治を任せる決断をしただけでもいい働きだった、という人もいる。
将軍家に生まれちゃったからしぶしぶ将軍になるしかなかった人なのかもしれないね。
問題の田沼意次については。次回以降詳しく見ていくよ。