前回は、天正遣欧使節がどういうものだったかについて見てきたね。
日本で更なる布教を行うため、西洋のすばらしさを身をもって体感していろいろなものを持ち帰ってきてもらうために派遣したんだった。
今回はその使節として派遣された少年たちについて見ていくよ。
天正遣欧使節の少年たちはそれぞれ違う道へ
前回でもちょろっと触れたけど、天正遣欧使節が日本を出発した時は、まだ織田信長が派遣を握っていたころ。
帰ってきたころには豊臣秀吉が日本のトップになっていて、おまけにキリシタンに対しては弾圧が加えられていた。
せっかく本場のキリスト教にも触れて、様々な見聞や物品を持ち帰ってきた4人にとっては、なんとも悲しい状況だった。
使節団の首席であった伊藤マンショは、キリスト教への逆風を受け入れ、長崎のコレジオ(神学校)の先生として静かに暮らすことにした。
中浦ジュリアンは、「バテレン追放令がなんだ!禁教令がなんだ!おれは布教し続けるぞ!」と江戸時代になっても長崎で布教活動をつづけた。
その結果幕府に目をつけられて、結果処刑されてしまう。
原マルティノは、弾圧の中布教しつつも、一方で翻訳活動など才能を生かして仕事をし、江戸幕府がキリシタン追放令をだすとおとなしくマカオへ国外退去した。
さて、一番大きく人生を変えたのが、千々石ミゲル。
彼は、ヨーロッパを巡る中で「え!キリスト教って奴隷認めてんの!?それってどうなのよ」とキリスト教に対して疑問を持ち始めていた。
日本に帰ってきてからもそれはぬぐえず、結局キリスト教徒を辞めることになる。
まとめ
ミゲルは、キリスト教について「他の国を侵略するための一つの道具として使っている気がするからキリスト教を認めない方がいい」と発言もしている。
世界史で有名なんだけど、実際にキリスト教は他国侵略に使われていたんだ。
これについてはまたいつか話をしよう。