江戸四大飢饉の最後にあるのが、「天保の大飢饉」。
この天保の大飢饉、餓死者は天明の大飢饉より少なかったけれど、人口減少量では天明の大飢饉と同じくらい。
つまりこの飢饉も非常に悲惨だったんだ。
詳しく見ていこう。
百姓の餓死者が大半・・・。
この飢饉は1833年ごろから始まって、二年後の1835年から本格化した。
原因となったのは、1833年で大雨や洪水が連発したこと、さらには冷害による大凶作。
またしても東北地方が壊滅的な打撃をうけた。
特に東北地方は新田開発で田んぼを増やし、米の年貢収入に頼っていたから、この凶作の影響をモロに受けた。
また、当時百姓たちの貧富の格差は非常に激しかった。
田沼意次が、農業を商業化したため、賢い百姓は利益を上げられた一方あんまり計系が得意じゃない百姓はどんどん貧乏になった。
結果、百姓たちが大量に餓死することになる。
幕府は江戸に餓死しそうな庶民を収容できる小屋を建てたけど全然足りない。
大坂では一日に200人も餓死で死んでいたという。
餓死者を一人も出さなかった藩があった!?
そんな中、今回も犠牲者を一人も出さなかった藩が現れる。
例えば田原藩(愛知)では、役人に倹約をさせ、庶民を救うことを第一としてこの飢饉に対策した。
中でも義倉が大活躍。
義倉とは、飢饉に備えてあらかじめ庶民や富裕層から米を集めておき、緊急時に配布できるようにした倉庫。
これのおかげで餓死者が一人も出なかったといわれている。
まとめ
江戸の大飢饉を順々に見てきたけど、一つ言えるのは大飢饉の被害拡大には「人災」が少なからずかかわっているということ。
今回の例でも、義倉のような対策設備を用意していれば餓死する庶民はガクンと減ったはず。
天災は仕方のないものだけど、これの対策を行わなかったお上にも責任はあるんだ。
結局、こうした飢饉から幕府への不信感が募り、やがて打ちこわし・一揆が多発することになる。