今回のお話は、「天明の大飢饉」について。
「江戸四大飢饉」の一つにして、江戸時代で最大の被害を出した飢饉でもある。
これも度重なる天災によって引き起こされてしまったんだけど、被害を拡大させてしまった要因に「田沼政治」があるんだ。
詳しく見ていこう。
スケールの大きな天災が連発
江戸時代最大の飢饉と言われるだけあって、大飢饉を引き起こした原因も凄まじい。
この飢饉の序章は、なんと天明の大飢饉が起こる10年前。
東北地方では、1770年代から度重なる冷害などで農作物に大きなダメージを受けていて、すでに農村部は限界状態だった。
そんな中、1783年、事件は起きた。
長野県にある浅間山が大噴火。
各地に火山灰が降り注ぎ、おまけに空を覆い隠して日光も遮られた。
この影響で冷害が悪化。
これに加えて、遥か海の彼方アイスランドでも火山が大噴火。
アイスランド付近の海が、日光が遮られることで海水温が低下。
この地域の海水温が下がると、日本に低気圧が停滞してしまうというエルニーニョ現象が発生する。
これら火山大噴火、ダブルパンチで農作物は壊滅的だった。
この影響で、1974年からは深刻な食糧不足になってしまった。
悲惨なのは庶民たち。
道のあちこちに死体が転がっていて、目も当てられないありさまだったという。
あまりに食料がないせいで、人肉を「犬の肉」と騙して販売されていたほど。
当然衛生状態も最悪だから病気も流行る。
なんと1780年から1786年までの6年間で日本の人口が92万人も減少したという。
本当に悲惨な飢饉だった。
田沼政治の失策
田沼政治では、おなじみ「重商政策」が打ち出されていた。
意次は年貢を増徴するため稲作をひたすら奨励した。
藩も財政難だったから新田開発に躍起になっていた。
でも、田んぼばっかり増えても耕す人がいなければ意味がない。
それを強引に働かせようとしたから百姓たちのキャパオーバーになってしまい、結果的に冷害などに対応する力がなくなっていた。
加えて備蓄米(有事に備えて蓄えておいた米)を江戸に回してしまう政策を行ったことで、いざ飢饉になったときに米が全然蓄えられていなかった。
こうした失策が相次いだことで飢饉の被害が広がってしまった。
まとめ
この大飢饉は、もちろん天災の影響が大きかったけど、幕府や藩の飢饉対策不足による人災の面も否定できない。
結果田畑を耕す百姓たちが全国で半減するレベルで餓死者を出してしまった。
江戸時代最悪の大飢饉と言われるのもうなずけるよね。