前回は、石田梅岩と彼の唱えた「心学」について見てきたね。
商人はほかの職にも劣ることは無く、立派な職業だと訴えたんだったね。
庶民向けの無料講座を開いたことでも有名だ。
そんな梅岩の弟子にあたるのが、今回紹介する手島堵庵(てじまとあん)だ。
石門心学を広めた立役者
手島堵庵は、京都の商人の子に生まれた。
しかし幼少のころに両親がなくなってしまい、その後は祖母によって育てられる。
17歳の時に知り合いのツテで梅岩を知り、そのまま入門。
もともとスジがよかったため、20歳の時には『都鄙問答』の作成作業にもかかわっていた。
堵庵が27歳の時に梅岩は死んでしまい、その後は家の商売に没頭した。
しかし、堵庵が50代になったころ、心学を広めるべく活動していた堵庵の先輩たちが次々になくなってしまう。
「残された俺が心学をみんなに伝えていかなきゃ!」と思った堵庵は、京都に明倫社という学校を作り、梅岩と同じようにお金は一切取らずに講義を行った。
手島堵庵は心学をさらに親しみやすくした
堵庵の功績と言えば何と言っても心学を世間にどんどん広めていったことだけど、その過程で堵庵は梅岩の心学をさらに簡単にした。
例えば、梅岩は悟りを開いた境地のことを「性を知る」と言っていたんだけど、これをもっとわかりやすく「本心を知る」と言った。
他にも、男子7歳から15歳、女子7歳から12歳に対しての講和本として、『男子女子前訓』というものを発刊したりして広めていった。
まとめ
堵庵は、心学をより分かりやすくして世間へ広げるのに尽力した。
江戸後期の隆盛には、堵庵の活躍が不可欠だったとも言える。