大化の改新を簡単にわかりやすく。改新の詔は盛りまくり!?

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乙巳の変(645)によって、蘇我氏の独断専行状態だった政治は終わりを告げた。

 

孝徳天皇を新たに据え、中臣鎌足&中大兄皇子が主体となって、国のシステム大改造を始める。

で、乙巳の変以後50年近くにわたって行われた様々な政策や改革のこと“大化の改新”という。

 

日本書紀では、646年に「改新の詔(みことのり)」というものが出されて政治改革の方針が示されたとある。

 

・・・と、ここで今までの記事を読んでくれた人なら、“うわ、出たよ日本書紀!”と思ってくれると思う。(笑)

 

日本書紀って奈良時代に書かれたもので、それより昔のことをかなり盛ってるんだったよね。

この改新の詔の内容も、後からかなり盛られていることがほぼ確定している。

 

今回は日本書紀の潤色部分も含めて、この大化の改新について詳しく見ていくよ。

日本書紀に書いてある「改新の詔」

 

大化の改新で何が行われたのかを調べるには、どうしても日本書紀を参照しなくちゃいけない。

もっと他の、盛ってない歴史書があればもちろんそっちを参照したいんだけど、大化の改新について書かれているのは日本書紀くらいしかないんだ。

 

だから胡散臭くてもとりあえずは日本書紀を見ていかなきゃいけない。

・・・と前置きした上で、本題に入っていくよ。

 

日本書紀によると、孝徳天皇をトップに据え、中臣鎌足と中大兄皇子は政権のブレイン役となったという。

今までの蘇我氏による独断政治から転換して、様々な改革案を打ち出した。これが改新の詔。

 

で、改新の詔には4つの条文がある。

 

 

第一条:公地公民制へ転換

 

現代では、日本の土地は一般人でもお金を出せば買うことができるよね。

 

それがこの7世紀らへんでは全く違う。

改新の詔が出る前までは、「皇族」や「豪族」といった強い権力を持った一族が、自分の地域の土地の権利をすべて持っている、という決まりだった。

 

ポイントは「豪族」も土地を持つことができたということ。

豪族は権力があるとはいえ天皇家のような特別な血筋じゃない。だから、この頃は「私有地」がある程度認められていたんだ。

 

 

これが改新の詔では「全ての土地は天皇のモノになります!当然そこに住む人も天皇の名のもとに集うのです!私有制は廃止。」ということになった。

いわゆる公地公民制というやつ。

 

天皇による支配を徹底したカタチだ。

 

 

第二条:国郡里制の制定

 

ちょっと脱線するけど、今の日本にはなんで都道府県があると思う?

まあいろいろ理由はあるけど、「効率がいい」ってメリットがあるからなんだよね。

 

例えばさ、高校とかだと「文化祭実行委員会」とか「学級委員会」とか「保健委員会」とか役割が色々あるじゃん。

もし「学級委員会」しか委員会がなくて、そこにすべての役割が任されていたらどうなるか。

 

絶対うまく回らないよね。

学年で10人ちょっとしかいないとこに、

 

「文化祭に向けての話し合いしなきゃ―!」「体育祭も近いからスローガン決めないと!」「最近トイレの使い方が汚いから注意喚起ポスター作らないとダメだ!」「修学旅行についても・・・!」

 

と問題山積みになること間違いなし。当然捌けるはずがない。

 

そこで「文化祭については文化祭委員会で話し合っといて」「トイレとかは保健委員会がやっといて」と役割分担をする。

こうすれば作業が効率化できるよね。

 

国郡里制ってのも同じで、それぞれの地域の問題とかを中央一か所でやってたら効率悪いから地方にも分担させようという仕組みなわけだ。

 

国郡里制をものすごく簡単に言うと、今の都道府県のようなものを作ったということ。

国が今でいう県で、郡が市、里が地名みたいなイメージをしてくれればOKだよ。

 

第三条:班田収授法を制定

班田収授法は奈良時代に行ったら詳しく解説するけど、簡単に言うと「戸籍・計帳を作って、それに基づいて土地を国から民へ分け与える」というしくみ。

 

さっき第一条のとこで言ったように、国の土地はあくまで天皇のもの。

で、その土地を天皇が国民に分け与える代わりに、国民は税を納めなさいというのが班田収授法なワケだ。

 

 

第四条:税制の改革

改新の詔以前にも「貢ぎ物」として税のようなものはあったけれど、改新の詔では「田んぼの面積に応じて作物を納めてね」という税の仕組みを示したことになる。

 

こういった税の仕組みは奈良時代に入ってから本格化するんだけど、その先駆けのような感じで書かれている。

 

盛りまくり?の日本書紀

 

ここまで見てきてナンだけど、上であげた「改新の詔」第一条~第四条にはかなりの「潤色」が為されていると考えられている。

要するに盛ってることね。

 

たとえば第一条の公地公民制について。

改新の詔では私有制廃止って謳っているものの、他の史料を参照すると改新の詔からかなり後まで豪族が土地を私有してたらしいんだ。

 

だから「完全に廃止はされてなかったんじゃ?」という疑問、さらには「そもそもこの時代公地公民制にはなってなかったんじゃ?」という意見も出てきている。

 

で、特に有名なのは第二条の国郡里制をめぐる問題だ。

 

 

郡評論争

 

日本書紀の「改新の詔」、第二条をめぐって起きた、日本の歴史研究界を巻き込む大論争を通称「郡評論争」というんだけど・・・。

 

発端は、一つの漢字の表記の違いだった。

 

日本書紀には「国郡里制が制定された」とあるけど、そのうち「郡(こおり)」という漢字が、なぜか地方にある大化の改新期に建てられた記念碑にはどこにも書かれていなかった。

 

そのかわり、石碑には「評(こおり)」という漢字が書かれていて、これが日本書紀にある「郡」と同じ意味なんじゃないか?と推測された。

 

ここである学者が気づいた。

「おかしい・・・。『郡』という字は奈良時代に入ってから頻繁に使われた漢字だ。大化の改新あたりでは、『郡(こおり)』ではなく『評(こおり)』という漢字を使うはず・・・。

 

なのに日本書紀では、奈良時代より50年も前の話である改新の詔で『郡』という字が使われている・・・。これってもしかして、日本書紀の記述が間違ってるんじゃないか!?

 

この意見がきっかけで大論争に発展。

日本書紀の「郡」という表記の方が正しい派と、記念碑にある「評」という表記が正しい派で激しく争った。

 

 

で、その論争はある遺跡から発掘された一つの木の札で決着した。

 

研究でこの木の札は699年あたりで使われたと書いてあって、さらに書かれた文字の中に「評」という言葉があった。

で、701年の大宝律令以降この「評」という字はぱったり消えて「郡」となることが更なる研究で分かった。

 

木の札は現場で事務的な作業で使われるものだから、わざわざ「脚色」することは考えにくい。

 

つまり木の札にあった「評」という漢字が、大化の改新後~大宝律令まで使われていたと結論付けられた。

 

言い換えれば、日本書紀で「郡」という字が使われているのがおかしいという話になる。

要するに、大化の改新で「国郡里を置いた」という記述が「盛っているんじゃないか」と判断されるわけだ。

 

こういった数々の議論の末、日本書紀の「改新の詔」はかなり盛られていて信ぴょう性に欠けるという結論が出された。

だから実際のところ大化の改新がどういうものだったのかについては様々な意見が出され、今も明確には分かっていない。

 

 

余談だけど、実は日本書紀が「盛りまくりの史料」だと多くの学者に認識されたのは、この郡評論争があったからなんだ。

郡評論争をきっかけに、「日本書紀の内容、そのまま信じちゃだめだ」と考えられるようになった。

 

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