菅原道真を簡単にわかりやすく!尚泰の変についても。

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前回の阿衡の紛議で、最後の方にちょこっと出てきた菅原道真(すがわらのみちざね)

 

菅原道真を知ってる人はかなり多いはず。

受験生は「~天満宮」に参拝する人も多いんじゃないかな?“学問の神様”とされているしね、道真は。

 

前回の「阿衡の紛議」では、藤原基経が「橘広相を島流しにしてくれなきゃヤ~ダ~!」と駄々こねていた時に「あんた、そんなことばかり言ってても藤原氏のためにはならんよ」とクールに忠告した人だったよね。

 

今回は、菅原道真がどういう人だったのか、どう政治にかかわっていたのか、そしてなんで祀られるようになったのか・・・という所を詳しく見ていくよ。

菅原道真と宇多天皇

 

菅原道真はいわゆる「天才」だった。

幼いころから難しい漢詩とかを読んじゃう系男子で、18歳の時にはその優秀さからもう役職つき。

 

幼少から漢詩などに精通していた事もあって、宮仕えをするようになってからは中国史や漢文学の専門家として有名になった。

 

道真にとって大きな転機となったのは、やっぱり「阿衡の紛議」だった。

藤原基経が橘広相の手紙が“自分を侮辱している!”と騒ぎ立て、橘広相が朝廷から追い出されてしまった事件だね。

 

この時道真は、「橘が島流しになるまで戻らない!」と言っていた時にその態度を諫めたんだったよね。

 

 

実はこの道真の行動が、宇多天皇を感動させていたんだ。

 

宇多天皇は、「阿衡の紛議」の一件を終えて、「あ~、俺って何て無力なんだろう・・・」と嘆いていた。

だって自分は国のトップ、天皇のハズなのに藤原氏の言うことにはヘーコラ従わざるを得なかったわけだからね。

 

そういった心情もあって、宇多天皇は「阿衡の紛議」後に道真を重用するようになる。

 

 

遣唐使の停止

菅原道真が行った政務でとても有名なのがこの「遣唐使の停止」

 

遣唐使と言えば、7世紀から断続的に送られている使節団だったよね。

唐の歴史や文化、仏教などを学んで盗むべく多数の留学生が送られたり、また高名な唐の僧侶が来日したりした。

 

そんな遣唐使だけど、9世紀前半の838年に送られた後しばらく遣唐使は送られなくなった。

 

理由はいくつかあって、

  • 唐の勢力が弱まり始めた
  • 朝鮮からの商船が日本に来航してくれるので、わざわざ唐に行く必要がなくなった
  • 日本の造船技術がショボすぎて船旅が危険すぎ

などが挙げられる。

 

まあ要するに、この9世紀ごろの遣唐使は「金はかかるしリスクもデカいのに、得られるものが少ない」という状態だったわけだ。

 

そんな中で、838年から実に50年くらい経った894年に「久しぶりに遣唐使送ってみる?」という話が持ち上がり、菅原道真が大使として派遣されることになった。

 

しかし道真は、「いや、正直もう遣唐使とか要らないと思いますよ?唐はもう見る影もないし、日本だって十分に文化が発展してるじゃないですか。」と進言し、遣唐使の停止を求めた。

 

結果的に道真の主張が取り入れられて、894年に遣唐使の歴史は終焉を迎えるんだ。

 

尚泰(しょうたい)の変

 

優秀さを存分に生かし、様々な政務にかかわっていった菅原道真だけど、出る杭は打たれるということなのかねぇ・・・。

またしても藤原氏の魔の手が迫ってきていた。

 

菅原道真は、自分が政治の中枢に入っていくとともに、政治を“朝廷を主体とした政治”へと変えていこうとしていた。

藤原氏がすべてを操るような政治には賛同出来てなかったんだね、道真は。

 

しかし藤原氏からすれば朝廷や天皇が力を持つのは気持ちのいいもんじゃない。

そりゃ自分の思い通りに好き放題やりたいもんね。

 

さらに、藤原氏以外の官僚からも妬み・僻みといった感情が多かれ少なかれ道真に寄せられていた。

一介の官僚に過ぎなかったの道真が、どんどん重用されてとても高い地位を獲得していくことを恨む根暗な連中もいたわけだ。

 

こういったことが重なり合ってか、道真が朝廷から追い出され、左遷されてしまうという事件が起きる。

 

当時、阿衡の紛議からというもの藤原氏が大っ嫌いになった宇多上皇と、藤原氏とくっついて政治を行おうとする天皇・醍醐(だいご)天皇が対立していた。(ちなみに醍醐天皇は宇多上皇の息子ね)

 

で、醍醐天皇と藤原氏の面々はこの対立をうまく利用して、朝廷ファーストの政治を行おうとしている道真を排除しようと考えた。

 

そこで実行されたのが、「宇多上皇が道真の娘の夫を、不正に皇太子にしようとしている」という、対立する宇多上皇側が「いかにもやりそうなこと」を言いふらすという作戦。

 

要するに、デマを流して道真の立場をなくしてやろうとしたんだ。

 

この作戦は大成功。

まんまとハメられた道真は、出来レースの裁判で左遷が決定。

 

僻地へと飛ばされ、平安京に帰ることができなくなってしまった。

これが尚泰の変と呼ばれている。

 

怨霊になった(?)道真

 

何も悪いことはしてないけど、政界の醜い権力闘争に巻き込まれて排除されてしまった道真。

九州の大宰府へ左遷されてからというもの、ず~っと嘆き悲しんでいたそうで。

 

結局道真は、平安京に戻ることができないまま九州の地で死んでしまった。

 

しかし。

道真の死後、朝廷には様々な災いが20年近くにわたって起きるようになった。

 

まずウソを言いふらした張本人とされる、藤原時平という人物が若くして病死。

その他道真を陥れるのにかかわったとされる人物が、病死や雷の直撃で相次いで死んでいった。

 

極めつけは、醍醐天皇とその他藤原氏の面々(道真排除にかかわった人も含む)が朝廷に集まって会議をしていた時のこと。

いきなり真っ黒い雲で空が覆われ、雷がみんなの集まる朝廷を直撃。

 

この雷で道真排除に加担した連中が即死するという事件が起きて、さらにその後心労が祟ってか醍醐天皇も死んでしまう。

 

 

天満宮の建造と現在

 

道真排除に関わった人たちの相次ぐ変死を見て、人々は「これは道真さんの怨霊のしわざなのでは・・・?」と考えるようになった。

 

そこで、その道真の怨霊を鎮めるために京都に北野天満宮という神社が立てられ、道真を祀ることにした。

すると次第に災いは無くなり、平穏を取り戻した・・・という。

 

この後日本各地に天満宮が建てられていくわけだ。

 

・・・その後。

時が経つとともに、いつしか天満宮は「怨霊となった道真を祀っている」という認識が薄れていって、代わりに「学問に秀で、歌人としても秀でていた道真を祀っている」という認識が持たれるようになった。

 

こういったわけで、今では道真は「学問の神」になってるし、天満宮は受験生がこぞって参拝する神社になったわけだ。

 

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