第二次世界大戦が勃発したころの日本は、外国との関係がすこぶる悪かったよね。
中国ともソ連ともアメリカとも仲が悪かったし、なんかドイツもよくわからない動きしてるし。
そんな頃の日本政府はどんな状態だったかというと・・・。
第一次近衛内閣が倒れた後3つの内閣が立て続けに誕生してはすぐ解散していた(平沼内閣、阿部内閣、米内内閣)。
この中でも阿部内閣と米内内閣は、日中戦争がこれ以上拡大するのを阻止しようとしたり、アメリカやソ連に近づこうとする動きをしていたんだけど。
結局当時の発言力が巨大すぎる陸軍にそっぽを向かれ、うまくいかず総辞職に追い込まれてしまう。
米内内閣が倒れたことを受けて次に生まれたのが、ミスター戦犯こと近衛文麿。第二次近衛内閣だ。
近衛はまた、ヤバい政策を推し進めてしまう。
第二次近衛文麿内閣で「独裁体制」に
第二次近衛内閣は1年間しか持たなかったものの、この間にやった政策はどれも「日本全体を戦争モードにする」ための政策。
第一次近衛内閣でも国家総動員法を定めたりしていたけれど、第二次ではさらに「戦争モード化」を推し進めていく。
第一次近衛内閣時代、かつて世界恐慌のあおりを受けて日本経済にダメージを受けていたの、覚えてるかな。(詳しくはここから→https://jahistory.com/kokumin-seishin-soudouin-undou/)
この世界恐慌のとき、ダメージを受けなかったのがソ連。その理由は、社会主義で計画経済を採用していたからだよね。
日本はこの様子をみて、「ソ連ってスゲェェェェェ!!」と思った。
自分の国がヒィヒィ言ってる中で、世界恐慌の影響を全く受けずむしろ経済成長している姿を見れば、当然隣の芝生が青く見えるわけだ。
そして、「日本もソ連の国の治め方をマネすれば経済成長できるようになるんじゃ・・・!?」と考えるようになった。
ソ連の政治体制は、簡単に言ってしまえば「社会主義」と「一党による独裁体制」。
日本はこれを真似しようとしたわけだ。
こうして日本国内では、「強力な指導者をトップにした、一党独裁のシステムにしようじゃないか!!」という声が高まっていった。
これを「新体制運動」という。
ちなみに、イタリアやドイツも社会主義ではなかったけれど「一党独裁」のカタチを取っていた。
イタリア・ドイツもうまいこと世界恐慌から復活した(ように日本には見えた)から、なおさら日本は一党独裁化に進もうとする。
大政翼賛会の設立
ただ、この時の日本国民は近衛文麿が如何にヤバい人物なのかを知らなかったようで・・・。
「一党独裁なら、血筋が良くて凛々しい近衛文麿様しかおらんやろー!」という声が物凄く高まった。
情報統制なんかもあったし、国民が全体的に戦争に対する危機感が薄かった、状況をよく理解できなかったって側面もあるのかもしれないね。
とにもかくにも、国民からのアツいコールを受けて第二次近衛内閣を組閣した近衛は、まず一党独裁体制を作るべく大政翼賛会という組織を作る。もちろん大政翼賛会の総裁は内閣総理大臣である近衛文麿だ。
これに関連して、日本にあったすべての政党が“自主的に解党”して、大政翼賛会の吸収される。
こうして大政翼賛会に対立する政党はなくなり、一応一党独裁の体制が生まれた。
大政翼賛会は「政党」ではない!
ところで、大政翼賛会って実は「政党」じゃないんだ。正式には公事結社、と呼ばれる。
これには、大政翼賛会が誕生する前、設立を巡って起きたある論争が関係している。
「一党独裁にするから首相を指導者にするで~」派に対して、「一党独裁とはいっても日本の国のトップは天皇だろ!?」派の2つがあった。
これが揉めに揉めたせいで大政翼賛会発足当日になっても、“政党に必要な決め事(要綱とか、宣言とか)”が何一つ決まってなかったんだ。
ここで近衛は急に「キミたち。大政翼賛会はな、“大政翼賛会にみんな従う”という決め事さえあればいいんだ。政党であるための要綱や宣言など必要ないのだよ。」と発言。
近衛的には、早く大政翼賛会を発足させたかったんだろうけど、マジメに一党独裁体制を考えていた人からすれば「ああ・・・終わった・・・。」と思った瞬間だった。
一党独裁体制ってのは、一つの強力な“政党”が、あらゆることを決定するというシステム。
だから政党じゃない大政翼賛会を作ったところで、厳密には一党独裁体制にはならない、ってことなんだよ。
大政翼賛会はこの後、政党としての力を持つ下部組織を置いたりして対応したんだけど、まず下部組織がある時点で完璧な一党独裁じゃない。
近衛の謎采配のせいで、一党独裁体制とは言い切れない、なんともビミョーな出来になってしまう。
まあでも敵対する政党は無くなったのは確かなわけで。
ソ連やドイツ、イタリアみたいな政治体制に日本もシフトしていくことになった。