鎌倉時代の一大スペクタルだった承久の乱。
前代未聞の朝廷VS武家政権の戦いは、鎌倉幕府ができた当初からの「地頭」という仕組みにも影響を及ぼした。
それが、今回紹介する「新補地頭」だ。
そもそも地頭ってなんだっけ?
地頭といえば、鎌倉幕府が敷いた特徴的な仕組みの一つだったよね。
平安時代にも地頭はあったけど、正式に制度として成立したのは鎌倉時代から。
地頭は、それぞれの地方の御家人から選ばれた「税金の徴収」「警察」「軍事」「行政」といった仕事をする人たちのことだね。
まあこれを見るだけで分かるように、かなり権力のある立場だったんだね、地頭は。
さて、今回話す新補地頭だけど、いったい当初の地頭とは何がちがうのか。
ポイントはやっぱり、承久の乱だ。
新補地頭は「元上皇の所領」に置かれた
承久の乱で、後鳥羽上皇側は完全敗北した。
これによって、上皇が持っていた所領(3000か所以上!)が鎌倉幕府のものとなった。
幕府からすれば、西側の土地を管理・支配できるようになったってことだから超ラッキー。早速ゲットした土地に地頭を配置することにした。
で、この時幕府はある法律を制定した。
これを新補率法(しんぽりっぽう)という。
新補率法は、例えば「地頭になったら管理する土地の収益の半分を、自分のものにしていいよ!」という決めごと。
この決まりに則って地頭になったのが、新補地頭というわけだ。
新補地頭と本補地頭の違いって?
承久の乱後に設置された新補地頭に対して、鎌倉幕府設立当初から地頭だった連中は「本補地頭」と呼ばれるようになる。
新補地頭と本補地頭の違いは大きく分けて以下の2つがある。
- 設置された時期が違う(本補地頭は承久の乱前、新補地頭は承久の乱後)
- 本補地頭と新補地頭では、地頭が得られる儲けの仕組みが違う
1は良いとして、問題は2だ。
本補地頭、つまり幕府ができたころに設置された地頭は、地域ごとの慣習によって持てる権利が違った。めちゃくちゃ権力を持てて儲けもがっぽがっぽの地頭もいれば、ショボい権力しかもたない地頭もいたってことだね、極端に言えば。
これに対して新補地頭の方は、新補率法であらかじめ得られる儲け分とか権力とかが設定されている。言い換えれば、新補地頭が得られる儲け分については格差がなくなるというわけだ。
こうして新補地頭が設定されたことで、幕府による西国への支配が強まっていったよ。