前回は、江戸時代の大衆本の種類について見てきたね。
洒落本や草双紙などがあったよね。
今回は、そんな洒落本や黄表紙を書いた著名作家のひとり、山東京伝(さんとうきょうでん)を見ていこう。
山東京伝は黄表紙・洒落本の人気作家!
山東京伝は江戸の深川で質屋の長男として生まれた。
20歳ごろに初めて黄表紙を執筆。
その後数々の洒落本や黄表紙を出版して人気を集め、30歳の時に出した「仕懸(しかけ)文庫」が大ヒット。
仕懸文庫は、京伝の書いた洒落本で深川の遊女の物語を描いた。
京伝自身も非常に遊郭を好んで、黄表紙作家の恋川春町ら文芸人たちと吉原の遊郭に遊びに行ったりしていた。
そういった経験もあって、京伝の洒落本や黄表紙は大成していったんだ。
しかしのちに、寛政の改革で「仕懸文庫イヤラシイからダメ!処罰だ!」とし、手鎖(手錠をかけられて家で謹慎する罰)を50日間食らってしまう。
京伝の妻も遊女!
京伝はオキニの遊女がいると、ひたすら通いつめていたという。
最初にかよいつめたのは京伝が19歳の時。菊園という遊女だった。
のちに菊園と京伝は結婚するんだけど、10年間の遊女勤めが祟って病気になり、30歳にしてなくなってしまう。
その後、37歳になった京伝は吉原で玉の井という遊女を気に入る。
玉の井のもとにひたすら通いつめて、一か月で家にいるのは4、5日だったという。
3年ほどたって、京伝は玉の井を身請け(お金を払って遊女を止めさせる)して、妻とした。
とても聡明な女性で、京伝とは終始円満な家庭だったという。
まとめ
京伝自身が遊郭に足しげく通っていたからこそ、面白い黄表紙や洒落本が生まれたんだね。
ちなみに、江戸時代では遊女と結婚するのは恥ずかしいことではなく、むしろ誇るべきことだった、といわれている。