今回は、鎌倉時代における琉球とアイヌの動きについて分かりやすく説明するよ。
この時代には、琉球でもアイヌでも豪族が力を強めるようになってきていたんだ。
覚える事はそんなに多くないから、ぜひこの範囲はおさえていってほしい。
琉球について
まず、琉球についてはみんな知っているよね。
一応説明しておくと、琉球とは沖縄の古称で、『隋書』に流求と出ているのが最初なんだ。
琉球は、北方の奄美から、沖縄本島、宮古、八重山諸島のことを指すよ。
また、台湾までも琉球に含める場合もあるんだ。
琉球では、12世紀頃、漁労中心の採取経済(=貝塚文化)から農耕経済に移行したんだ。
この頃、按司という豪族が琉球に出現するようになるよ。
そして、この按司という豪族が拠点とした聖域もしくは集落の事をグスク(城)と呼ぶんだ。
その後、按司はどんどん勢力を拡大していき、その勢力の拡大に伴って、
聖域を含む小高い丘に石垣をめぐらした城砦をグスクと呼ぶようになっていくんだ。
アイヌについて
皆はアイヌについては知っているかな。
アイヌという単語を聞いたことのある人は多いと思うんだ。
アイヌとは、樺太・千島・北海道に古くから住む、アイヌ語を母国語とする民族のことなんだ。
アイヌとは、神に対する「人間」を意味するよ。
アイヌと和人が戦うこともあったんだけど、それはまだ先の話だから、室町時代らへんでそれは説明するね。
鎌倉時代のころ、北海道では、擦文文化が広く展開していたよ。
擦文文化とは7~13世紀頃に北海道に広く展開した鉄器文化の事で、この名称は、
続縄文土器と土師器の影響を受けて誕生した櫛の歯のような文様を持つ擦文土器に由来するんだ。
主な生業は狩猟と漁労で、北海道式古墳も作られたんだ。
擦文文化の広がる中で、北海道ではもう1つの文化が展開していたんだ。
それが、オホーツク文化。
オホーツク文化とは、オホーツク海沿岸一帯で7~13世紀に展開した異質の土器文化なんだ。
北アジア系の漁労民が渡来して生まれた文化で、
オホーツク式土器、竪穴住居、貝塚、墳墓などを残しているよ。
安藤(東)氏について
琉球やアイヌでは鎌倉時代のころ、豪族が勢力を強めていることがわかったね。
だけど、豪族が勢力を強めていたのは琉球やアイヌだけではないんだ。
津軽国津軽地方でも安藤(東)氏という豪族が勢力を強めていたんだよ。
安藤(東)氏は安倍貞任の子孫だと伝えられているんだ。
安藤(東)氏は、鎌倉初期に北条義時の被官(御内人)となり、蝦夷管領(代官)に任じられたんだ。
そして、十三湊を拠点として、日本海交易を行い、蝦夷ヶ島南部をも勢力下においたんだ。
十三湊というのは津軽半島の日本海側にあった港の事で、岩木川河口部の十三湖に位置するよ。
十三湊は「廻船式目」にも三津七湊の一つに挙げられるなど、日本海の波濤をしのげる良港として、発達したんだ。
ところで、安藤(東)氏は、1322年に内紛を起こしているんだ。
安藤(東)氏の支配下にあった蝦夷が反抗して、幕府がそれを受けて一族内で管領職を交替させたのが内紛のきっかけなんだ。
この時に、内管領長崎高資が双方から賄賂を受け取って内紛が深刻化し、幕府権威が大きく失墜してしまったんだ。