さて、前回は日本史上初の「朝廷Vs武家政権」の戦いであった承久の乱を見てきたね。
後鳥羽上皇が鎌倉幕府の事実上トップであった北条義時を討とうとして、逆にやられてしまった戦いだった。
結果、後鳥羽上皇は流刑になって政治の表舞台から消えた。
一方北条ら幕府側は、朝廷よりも有利な立場にあることを全国に知らしめることになった。力関係が完全に変わってしまったってことだね。
で、問題は戦後処理だ。
幕府側からすれば承久の乱は鎮圧できたものの、こんな反乱を何回もやられたんじゃたまったもんじゃない。
そこで今後の反乱を防止するため、いろいろな対策を講じることになる。
その一つが、「六波羅探題の設置」というわけだ。
承久の乱の戦後処理
もともと京都には、幕府側から「京都守護」という部署が配置されていた。
これは朝廷の警備とか朝廷と幕府の連絡役だとかを担当していた部署だったよね。
だけど承久の乱がおきてしまった。
幕府側は、「いままでの京都守護だけじゃダメだ!もっと朝廷の監視を強めていかないとまた反乱がおきるかもしれない」と考えるようになった。
というわけで京都守護は、新たに「六波羅探題」という組織に生まれ変わった。
六波羅探題は「京都の警察」兼「朝廷の監視役」
六波羅探題はさっき話したように、「朝廷の監視」を目的として作られた組織。
・・・だった。最初のうちは。
承久の乱の戦後処置の一つとして、幕府側が京都の武装組織を解体した。
しかしこれによって、京都の治安がとんでもなく悪くなってしまう。
それもそのはず、幕府が解体した京都の武装組織は今まで京都の警察役の中心だった「検非違使(けびいし)」や「北面の武士(ほくめんのぶし)」といった集団だったんだ。
幕府がこれらを解体したことで、ある意味無法地帯のようになってしまったから、京都の治安が悪化したんだね。
さすがにこの状況を見て見ぬふりはできない。だから、六波羅探題の業務を朝廷の監視だけではなくて「京都の警備」も兼任させるようになった。
こうして六波羅探題は、「京都の警察」としての側面と、「朝廷の監視役」としての側面を持つようになったんだ。
六波羅探題のなかでトップの役職は「北方」、ついで「南方」。基本的に北方には北条氏系の人が就任する。
六波羅探題は、執権・連署(今度詳しく説明するよ)に並んで超重要な役職だったんだ。
※ちなみに・・・。
「六波羅」っていうのは京都にある地名の一つだ。六波羅に置かれた組織だったから、「六波羅探題(または単に六波羅)」と呼ばれているんだよ。