今日も立憲政治の設立の初期だね。
伊藤博文はヨーロッパに憲法を勉強するために1年以上滞在して、シュタインやグナイストに憲法のあれこれを教えてもらったよね。
そして実際に憲法の起草に当たる人物がこのロエスレルや井上毅なんだよ。
今日は憲法起草に当たった人物について見てみようか。
ロエスレルと井上毅(いのうえこわし)
まずね、明治十四年の政変を思い出してみようよ。1881年の話ね。
大隈重信=イギリス流
伊藤博文=ドイツ流
の憲法案を指示していたんだよね。ロエスレルはこの時すでに、井上毅にも
『ドイツ流の憲法いいっすよ!絶対、ドイツ流ですって!』
と助言をかましていたんだよね。というかロエスレルってのは1878年から政府の顧問として法律関係のアドバイスをしていたからさ。
そして、来る1886年。
伊藤博文がヨーロッパの憲法視察から帰ってきて、実際に伊藤博文の私邸で井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎大日本帝国憲法の草案を極秘に行っていくのね。
ロエスレルはわざわざ伊藤博文の私邸の近くに寝泊まりして彼らにバッチリアドバイスをしまくるのさ。
だからこのことから、ロエスレルは大日本帝国憲法の制定に物凄い力を貸している人物だってわかるよね。
あとで大日本的告憲法のところで詳しくやるけども、この大日本帝国憲法ってのはアジア初の憲法なのね。
当時は、アジアっていうとまだ未開の地だったわけだから、白人様達はかなり馬鹿にしていたんだよ。
憲法ってのは国のルールだから、それを制定している国ってのは近代国家として認めてもらえるんじゃないか?って思考があったわけね。
なんで、そんなにも急いで日本は「近代国家」として認めてもらいたいのか?
と言うと、答えはもうわかるよね・・・・?そう、不平等条約さ!!
江戸末期に結んでしまった不平等条約を一刻も早く改正するために、近代国家になれるためのことはすぐさまやろう!ってことだったわけ。
その1つが憲法制定だったわけなんだよね。ロエスレルからちょと外れたけど、伊藤博文がわざわざヨーロッパまで憲法の視察にいって、お雇い外国人に意見を求める理由を知って欲しかったんだよ。