国会開設の勅諭が出されて、自由党や立憲改進党が作られたよね。
10年後に国会開きますよ!と明治政府が天皇に進言する形で、勅諭を出したので、人々は政党を作っていったわけだ。
しかーし!!明治政府は集会条例で厳しく取り締まったんだよね、それで衰退していっちゃったわけ。
ちょっとマイナーなんだけども、立憲帝政党ってのも作られているんだよ。
立憲帝政党とは?
1882年に結党。政治評論家の福地源一郎が作ったよ。
福地源一郎は1868年に『江湖新聞』ってのを発行して、のちに東京日日新聞の社長を務めているんだよ。
政府を支持する立場を取っていて、政府の御用新聞なんて言われているんだよね。
この福地源一郎は1882年に立憲帝政党を作っただんだけど、自由党や立憲改進党に対抗するために作ったのね。
立憲帝政党は天皇主権、憲法の施行、司法権の独立、言論の自由などを謳ったんだけど、
明治政府は、「外部の意見など聞かん!」という超然主義的態度を貫き通していたから、翌年にすぐ解散しちゃったんだよね。
また立憲帝政党は保守層から人気になったんだけど、政府のために政党のようなもんだから組織として弱かったんだよね。自由党や立憲改進党は政府を批判して、自分たちの権利を求めるための政党じゃん?
立憲帝政党にはそこまでの強い志やモチベーションが無かったわけ。
明治政府のポジション
立憲帝政党は政府を支持するような政党だったけど解散しているよね。
「え?政府を支持するような政党なんでしょ?なんで解散しちゃうの?」
と思うかもしれない。
当時の明治政府はどの政党に対しても「超然主義」的態度を取っていたのね。つまり、
「政党?知らねーよ。勝手にやってろよ」
という態度ね。政府ってのはもっと高潔な存在で、政党の外にあるものだから、無関与ですよ。ってスタンスだね。
立憲帝政党は政府を支持していたけど、政府は我関せずってことだったんだ。
実際は政党を作って、10年後の議会の議員に選ばれたら甘い汁吸えるんじゃないか?って思って立憲帝政党に参加した人も多かったらしいよ。