立憲自由党って一時期だけ活動していたから、ちょい地味だよね。
でもね、この立憲自由党の動きから第一議会の関連キーワードを覚えていくことによって、この時期の流れってのは深く掴めるんだよ。
超然主義自体がよく掴みづらいかもしれないけど、この第一議会の流れは何度も言うぜ。
立憲自由党とは
立憲自由党は1890年1月に大井憲太郎らが自由党を再建したものなんだよ。
よっしゃー!選挙じゃー!!自由党再建しようぜ!!
ということで、愛国公党・自由党・大同倶楽部を合流させたのね。第一議会の直前に立憲自由党って名前にしたよ。
でもって、すぐに翌年の91年にはまた板垣退助を総裁にして自由党って名前に変えたよ。
めんどくせぇことすんじゃねぇ!!
と、純粋につっこみたくなるよな。
立憲自由党は第一議会の時の名前だと考えといてくれ!
この立憲自由党は強くてね、山縣有朋の第一議会の時に130議席を占めて第一党になったんだよ。
政策としては、「政費節減」を謳って、行政の整理をしたり、予算を圧縮していって人々の税金を減らしていこうとしたんだよね。すごい!偉い!!
もちろん衆議院ってのは民選なわけだし、自由民権運動ってのは世間の人々を助けるために立ち上がっていった団体だから、もちろんそういった政策になるよね。
ここで!何度も流れを掴もう。
立憲自由党や立憲改進党の民党ってのは、民選だからさ。
民から選ばれていて、民の生活をよくするために政治活動を行おうとしてわけ。
それに対して、藩閥政治!まぁ言っちゃえば、伊藤博文→黒田清隆→山縣有朋らの勢力は「超然」の立場を取っているわけだわ。
もっと言っちゃば、朝鮮の利益を取りに行きたいから軍事費を拡大していきたいわけなんだよ。民党の民寄りの意見なんかに自分らの政策を左右されたくないのね。
民党 vs 藩閥政府
の構図ができあがるわけ。
つーかさ。結局、対立構造なんだよ。開国以降ってのは、どの勢力とどの勢力が戦っているのか?を知るゲームなのさ。
対立構造を掴むことが日本史の流れを掴む大事な要素なわけ。
第一議会(山形内閣第1次)のまとめ
これが日本史の点数を劇的に上げる秘訣だ。
第一次山形内閣=第一議会についてまとめて覚えよう。
○第一議会
1889年12月~1891年2月(約500日)
山形有朋は陸海軍の経費を増強しまくって朝鮮半島の利益を得ようとしていたわけ。朝鮮半島のことを「利益線」とか呼んでいたからね。
日本の国境のことを「主導線」と呼んで、朝鮮半島を「利益線」としていたの。
でも、立憲自由党と立憲改進党の民党には、反対されちゃってさ。「そんな軍事力にお金かけるんじゃなくて、民の税金減らしましょうよ。」ってことで。
こいつら民党で過半数占めてたんだけど・・・山形有朋どうしたと思う??
・・・買収!!
流石だねー。立憲自由党の一部の人間を買収して無理やり予算案を通していったんだよ。
なかなかやるね。