応天門の変をわかりやすく!事件の真犯人、真相とは?

前回見た「承和の変」で、良房の権力は相当強大なものになり、他の有力氏族に悪いイメージをつけることに成功した。

 

そんな中、ど~も不可解な事件が発生するんだよね。

応天門の変というやつなんだけどね。

 

この事件、真相がどうとかとか、黒幕が別にいるんじゃないかとか、まあいろいろ言われてる事件で。

良房黒幕説まである事件。

 

今回はこれを詳しく見ていくよ。

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平治の乱は誰と誰が戦ったの?相関図で分かりやすく。【後編】

平治の乱(前半)では、信西派と後白河派(信頼)&二条派のバトルが繰り広げられたね。

まあ清盛がいなかった事もあって一方的な結果になったけど。

 

後半はどうなるかというと、今度は「信頼と二条派」のバトル。

ここに事件の知らせを聞いて急いで京に戻ってきた平氏勢力も加わってきて、前半よりも大規模な戦闘になるよ。

 

詳しく見ていこう。

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平治の乱は誰と誰が戦ったの?相関図で分かりやすく。【前編】

保元の乱によって、崇徳上皇とその派閥は敗北。

後白河天皇を擁する鳥羽派が勝利したよね。

 

というわけで後白河天皇の治世が始まるわけだけど、前回のラストでちょっと触れたように、

後白河天皇の裏には信西という坊さんがいたんだよね。

 

後白河天皇は鳥羽vs崇徳の争いに巻き込まれる形で、唐突に天皇になっちゃった系の人だから、側近である信西に頼らざるを得ない状況にもあった。

結果、後白河天皇による政治というよりも、「信西による政治」が始まることになるんだけど。

 

これがまた、新たな対立を生んでしまうんだ。

詳しく見ていこう。

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承和の変を簡単に分かりやすく!語呂合わせも紹介するよ。

嵯峨天皇は前回の「薬子の変」の後、弟の淳和天皇の天皇の座を譲って自分は上皇となり、大ボスとして政治の中心に君臨し続けた。

淳和天皇もすぐに上皇となり、嵯峨天皇の息子である仁明(にんみょう)天皇に座を譲った。

 

そんな嵯峨上皇・淳和上皇・仁明天皇の裏で・・・。

またあの一族が動き始めていた。

 

そう、藤原氏だ。

 

しばらくその権勢を弱めていたものの、じわじわとまた朝廷の中枢に近づいて、のし上がろうと計画していた。

詳しく見ていこうか。

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薬子の変をわかりやすく!蔵人頭の誕生についても。

桓武天皇が806年に亡くなった後、その子である平城天皇が即位した。

 

この平城天皇も桓武天皇よろしく政治改革にノリノリな人だったんだけど、病気がきっかけで皇位を弟である嵯峨天皇(さがてんのう)に譲ることになる。

 

しかし・・・平城天皇の後ろには藤原薬子という女性の影があったりして、これが壮大な兄弟げんかに発展しちゃったりする。

なんのことやらさっぱりだと思うので、詳しく見ていこう。

 

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桓武天皇は何をした?勘解由使、健児もわかりやすく。

「律令制」という仕組みで成り立っていた奈良時代は、案外早く終焉を迎えてしまう。

710~794だから、わずか84年だね。

 

前回見たように、墾田永年私財法による「班田収授制の崩壊」を皮切りにして日本の律令制は崩壊していく。

 

この律令制崩壊の大きな転機となったのが、桓武天皇の治世。

桓武天皇が794年に都を平安京に移したことから始まる平安時代は、律令の時代から武士の時代へとゆっくりゆっくり移り変わっていく時代でもあるんだ。

 

今回は、そんな平安時代の夜明けを担った桓武天皇の政治について見ていこう。

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奈良時代の天平文化の特徴とは?簡単にわかりやすく。

奈良時代の日本文化は、唐の影響をモロに受けた。

と言うより、日本側が積極的に唐の文化を取り入れようとしていた。

 

遣唐使で得た唐のさまざまな文化を日本に持ち込んだもの、それが天平文化だ。貴族達の集まる都(=奈良の平城京)を中心に展開した。

特に仏教に関係する文化財がたくさん作られた時期でもある。

 

お寺や大仏なんかがその代表例だ。

 

また、(ウソの記載も多いものの)日本の古代の歴史を知る上では欠かせない『日本書紀』を初めとして、いろいろな歴史書が誕生した。

和歌の分野では『万葉集』が作られたりね。

 

今回は、そんな天平文化についてざっくり見ていこうと思う。

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菅原道真を簡単にわかりやすく!尚泰の変についても。

前回の阿衡の紛議で、最後の方にちょこっと出てきた菅原道真(すがわらのみちざね)

 

菅原道真を知ってる人はかなり多いはず。

受験生は「~天満宮」に参拝する人も多いんじゃないかな?“学問の神様”とされているしね、道真は。

 

前回の「阿衡の紛議」では、藤原基経が「橘広相を島流しにしてくれなきゃヤ~ダ~!」と駄々こねていた時に「あんた、そんなことばかり言ってても藤原氏のためにはならんよ」とクールに忠告した人だったよね。

 

今回は、菅原道真がどういう人だったのか、どう政治にかかわっていたのか、そしてなんで祀られるようになったのか・・・という所を詳しく見ていくよ。

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墾田永年私財法はなぜ出された?その目的と結果とは。

前回見た「百万町歩開墾計画」と「三世一身の法」は、上手く機能しなかったね。(詳しくはhttps://jahistory.com/hyakuman-tyoubu-kaikon-keikaku/

 

上手くいかなかった原因は、「いくら開墾しても、結局いつかは国に没収されちゃう」という部分が国民のモチベーションを下げていたこと。

まあ公地公民制を敷いていた古代日本では、当然いつかは国のモノにしないと根本から覆ってしまうからね。しょうがない。

 

・・・ところが。

増え続ける人口と、それにつれて年々深刻になってくる食糧問題。

 

流石に対策しないと大変なことになると思った政府は、超大胆な政策を打ち出すことにした。

それが今回見ていく墾田永年私財法(こんでん えいねん しざいのほう)

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百万町歩開墾計画をわかりやすく。三世一身の法との関係も。

奈良時代は「律令制」の時代。

 

土地も国民も天皇の下にある、という公地公民制が基本だったよね。

で、口分田を国民に分け与えて、そこから税を取るという仕組みだった。

 

ところが、時間とともに人口が増えてくると、「口分田が足りない」という事態になってしまった。

まあ一人一人に田んぼ配ってるんだから当然ちゃあ当然だよね。

 

田んぼが足りないということは、人口に対して採れる作物が足りないということでもある。

要するに食糧問題が出てきてしまったわけだ。

 

今回は、この問題を解決するため奈良時代の政府が行った政策を見ていくよ。

 

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