前回は、「方広寺鐘名事件」についての話だったね。
どんな事件だったか一言でいえば、「家康が秀頼に言いがかりをつけて、豊臣の軍勢を攻める口実にした」ってトコだよね!
秀頼が再建した、方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文字を、「家康を分断して豊臣の繁栄願うとは、なんてやつだ!コノヤロウ!!」って解釈されて、家康超怒っちゃった。
さあ、いよいよ決戦が始まるよ!
大坂冬の陣
まず最初にちょっと順番に注意!この大坂での戦い、「夏の陣」と「冬の陣」があるんだけど、冬→夏の順番ね!
さて、方広寺の事件で業を煮やした家康はついに1614年10月、大坂冬の陣を引きおこした!
秀頼側は大量のお金を使って全国から浪人を寄せ集め、10万の軍勢になったんだけど、なんせ寄せ集めだから、統率が取れない・・・!対して家康は20万の軍で大坂城を包囲した。
だけど大坂城は難攻不落の城として有名なんだよね。大坂城は当時日本最大の城だったから、本丸に近づくのが大変!加えて外に流れる川が天然の外堀になってて、さらにその中に外堀・内堀があるから攻め入る側が大量に軍を展開できないんだ。
和議(停戦協定)
家康側は大砲を撃ちまくって突破口を開こうとして、一方秀頼側は近づいてくる敵兵に銃撃を浴びせる。こんな泥沼の争いが続いて、お互いだんだん苦しくなってきたので、和平会議をすることにしたんだ。
秀頼側からの要求は
①二の丸・三の丸を破壊し、外堀を埋める代わりに本丸を残す
②淀君(秀吉の妻)人質を出すかわりに、大野治長、織田有楽斎を人質に出す
これに対して家康側は
①秀頼の身の安全と土地の保障
②城の中にいる兵士を罪に問わない
として、これで和議を成立させた。
でも実はこの約束の中に一つ、今後の戦いに大きく影響するとんでもない条文があるんだけど、気づいた?
そう、①の「二の丸・三の丸を破壊して、さらに外堀を埋める」ってところ!!
堀っていうのは城の一番大きな防衛手段だから、これを失っちゃうと正直難攻不落でもなんでもなくなっちゃうんだよ!
結局この条文通り家康は徹底的に堀を埋め、二の丸・三の丸をぶっ壊してしまった。
もはや裸同然になった大坂城に、満を持して家康が攻め入っていく・・・
〈おまけ〉
家康は和議の約束通り堀を埋めたり二の丸三の丸を破壊したりしたけど、実はこれ、「大坂城を建てた本人から教えてもらった攻略法」だっていう話があるんだ。城を建てたのはそう、豊臣秀吉。
ある日酒の席で、秀吉が「この城を落とすにはどうすればいいか?それはいったん和議に持ち込んで堀を埋めてしまえばいいんじゃハハハ」と言ってしまったそう。
で、それを横で聞いていた家康は、大坂冬の陣の和議でその通り実行したんだ。その結果は・・・次回!
それにしても、なんてマヌケな話!