木戸孝允と板垣退助は大阪会議で参議に復帰!

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自由民権運動は続くよ。

この自由民権運動を理解する時は、必ず年号をチェックしよう。自由民権運動の初期ってのは1874年から西南戦争の終結までが一つの時期なんだわ。

士族の反乱と自由民権運動は同時期に起きてるから要チェックね。

今日は木戸孝允と板垣退助が参議に復帰した大阪会議についてだよ。

大阪会議とは

ちょっと復習しよう。

1874年 板垣退助が愛国公党を作り、民選議院設立建白書を出す
1874年 板垣退助が土佐に帰り、立志社を作る
1875年 立志社を中心にして、全国的な政社である愛国社を作る

という流れがあったね。

中心的な人物である板垣退助は、この大阪会議で参議に戻ることになるので、愛国社の活動は実質休止になるよ。その後西南戦争も起きるしね。

 

で、大阪会議に話を戻すよ。

 

明治六年の政変で板垣退助ら有力な政治家が政界を去るよね。

さらに、木戸孝允まで台湾出兵に反対して下野しちゃったから、政局が行き詰っていたわけ。

 

やばい!と思ったかどうかは知らんけど、大久保利通は板垣退助と木戸孝允を大阪に呼んで会議を行ったのね。で、1875年の3月に板垣退助と木戸孝允は参議に復帰することになったんだね。

これが大阪会議。

 

立憲政体樹立の詔とは

この1875年大阪会議で、立憲政体樹立の詔が出されるよ。

元老院と大審院を設けて地方官会議を収集して、国会開設の準備を進めていったんだね。いざ国会開設しますよ!といったところで、準備を進めておかないといけないじゃん?

特に立法や司法の機関は重要だし、民選するってなったら全国の整備が必要だよね。

元老院、大審院、地方官会議についてもまとめておくよ。

 

○元老院

左院を廃止して設けられた立法機関ね。

 

○大審院

司法権を行使する最高機関ね。

 

○地方官会議

地方にいる官の人間達の会議ってこと。

つまり府知事・県令が地方の状況を説明するために集められた会議ね。

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コメント

  1. 受験生 より:

    大久保利通はどのようにして板垣と木戸を説得したのでしょうか?

    1. jahistory より:

      コメントありがとうございます!

      大阪会議についてですね。
      板垣と木戸が参議に戻ったのは“大久保の説得”というより、“それぞれの利害が一致したから”という方が正確です。

      大久保は、
      「木戸が参議に戻ってくれれば政治が円滑に行えるから戻ってほしい」
      「板垣は別に戻らなくてもいいかな」
      と考えていました。

      木戸は、
      「大久保の参議復帰要請を飲んでやれば、大久保に恩を売ることができる。そうすれば俺の発言権も増すし戻ってやってもいいな」
      「板垣とは意見が合うし、一緒に参議に戻りたいな」
      と考えていました。

      板垣は参議に戻る戻らないよりも、自分の目標である「議会制の導入」の実現を第一に考えていたので、

      「大久保は俺のこと復帰させたくないようだし、俺は参議に戻れそうにないな」
      「でも、木戸は大久保に求められて参議に復帰できそうだ。じゃあ木戸に俺の目標を伝えておいて、木戸に実現してもらえばいいや」
      と考えました。

      しかし、大阪会議の前に木戸と大久保が面談した際、
      大久保は「う~ん、木戸は板垣と一緒に戻りたいって言ってるし、板垣も外野に放っておくと後々面倒なことになりそうだな・・・。しゃ~ない、板垣も参議にもどすか
      と方針転換。

      結果、大阪会議で板垣と木戸が参議に戻ることになったのです。
      この流れを鑑みると、大久保が二人を説得したというより、それぞれの思惑のために参議復帰したという方が妥当ですね。

      長くなってしまいすみません・・・。
      受験応援しています!

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