前回は、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍の戦い、姉川の戦いについて見てきたね。
姉川の戦いによって浅井軍は手痛いダメージを食らい、比叡山の延暦寺に逃げ込む。
いったん織田軍と浅井軍の間は停戦協定が設けられ、和睦をした。
しかし、これで争いは終わらなかった。
比叡山は軍事拠点だった!?
実は延暦寺、ただの寺ではなかった。
京都へ攻め入る場合、この比叡山は避けて通れない場所となっていた。
加えて山の上には数万の軍勢をスタンバイさせておくことができたから、非常に強力な軍事拠点となっていたわけだ。
信長と延暦寺は前々から敵対していた(信長が比叡山の領土を横領していたから)。
これに加え延暦寺が浅井長政や朝倉軍を保護したことからさらに対立が深まる。
これを機に信長は比叡山を責めることにした。
比叡山焼き討ち
信長は延暦寺を包囲し、明け方になったら一気に攻め込む予定だった。
これを聞きつけた延暦寺はさすがに勝てないと思って信長に「お金あげるから助けてくださいよぉ~」とお願いしたが聞き入れてもらえず。
やむなく比叡山側も戦闘態勢に入る。
しかし、早朝の合図とともに信長軍は次々火を放ち焼き払い始める。
武装した僧侶や兵士たちはみな焼かれたり殺されたりで、数千人が死んだという。
まとめ
延暦寺はこの焼き討ちで事実上壊滅。
信長はその後京都に戻り、戦後処理は部下の明智光秀らが行った。