治安維持法では「所有財産制度の否認」という社会主義的思想を禁止するものだった。
あまり所有財産と関りを持たないけれど、「才能」が個人のもの(財産)か、あるいは社会(文化集団)のものか考えてみよう。
例えば物凄いバスケットボールプレイヤーの収入を社会に分配しなければならないと国が決めたらみんなはかわいそうに思うだろうか。
才能のおかげではあるものの物凄い努力してすごいバスケットボール選手になったのに、と。
でもどうして彼(バスケットボール選手)はバスケットボールで収入を得られるのか?と問われれば、次のようになるだろう。
たまたま文化的にバスケットボールを好きな人が多い国に生まれて、試合観戦にお金を払う人がそこにたまたまたくさんいたから、と。
そうすると、彼が才能を発揮して、努力が報われるのは単に文化的に周りのひとたちが彼を評価しているからなんだ。
もしかすると、彼は才能を発揮できない文化に生まれて不甲斐ない人生を送っていたかもしれない。
そのように言われると、彼のバスケットボールの「才能」は彼自身のものというよりは「文化集団」のものに思えてしまう。
社会主義的に考えていって、絶対的に自分のものって言えるものって一体何だろう、と問いかけてみると面白いかもしれない。
それじゃあ、本題に入ろうか!
日ソ基本条約とは?わかりやすく
これから
日ソ基本条約(にちそきほんじょうやく)
を見ていくわけだけど、ひとことでわかりやすく言えば、
日本とソヴィエトとの交流を回復しましょう!、という条約。
特に難しい内容を約束した条約ではないから安心して。
じゃあなぜいままでソヴィエトとの交流が失われていたかというとシベリア出兵(ここで詳しくやったよ)が原因。
第一次世界大戦中にロシア革命(1917年)が起こって、ソヴィエト政権が誕生したね。
アメリカが社会主義政権が誕生したことに恐れて、ロシアを帝政に戻そう!と各国に呼び掛けたのがシベリア出兵(1918年)だったんだ。
シベリア出兵は失敗に終わって、大した成果も得られなかったんだけど、日本はなかなかロシアから撤退しなかったんだ。
けっきょくシベリアから撤退したのは1922年で、北樺太(からふと)から撤退したのは1925年。
北樺太から撤退したとしに、また交流をはじめようね、という約束が結ばれたんだ。
それが
日ソ基本条約(にちそきほんじょうやく)!
もちろん年号は1925年ね!
日ソ基本条約は加藤内閣のときに結ばれたよ。
条約を結んだ外相は幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)ね!
幣原といえば
協調外交(きょうちょうがいこう)
が有名だね。
協調外交は武力ではなく話し合いで解決しよう!というワシントン会議以降とられた外交のやり方のことをいうよ。
英米に対しては武力対立を避けて、中国に対しては内政不干渉の態度で臨む外交なんだ。
協調外交は主に幣原が推進した外交だから
幣原外交(しではらがいこう)
とも呼ばれているんだ。
日ソ基本条約と治安維持法との関り
日ソ基本条約は1925年に結ばれたわけだけど、1925年に制定された重要な法律があったね。
それは
治安維持法(ちあんいじほう)!!
治安維持法は社会主義が日本に拡大するのを防ぐための法律だったね(ここで詳しくやったよ)。
治安維持法は普通選挙の際に社会主義思想が政治に入り込むのを防ぐために制定されたんだ。
世界的に社会主義が拡大していたから、普通選挙によって社会主義政党が政権を握る可能性があるからね。
さらに治安維持法は日ソ基本条約にも役立ったんだ。
ソヴィエトは社会主義の国だから、ソヴィエトと交流を再開してしまったら社会主義思想がはい入り込んでしまうからね。
治安維持法のおかげで日本は心配なくソヴィエトと条約を結べたんだ。
治安維持法は普通選挙(ここで詳しくやったよ)だけでなく、日ソ基本条約のための社会主義対策だったんだね。