日本とソ連は、ノモンハン事件によって関係が非常に悪くなったよね。
おまけにソ連とドイツが不可侵条約を結んじゃったりしてね。
しかし複雑怪奇なもので、独ソ不可侵条約が結ばれた約2年後、今度は日本とソ連が条約を結ぶことになる。
どうしてなのか、詳しく見ていこう。
破天荒ドイツ君
日本とソ連が条約を締結する原因となったのは、独ソ不可侵条約で日本を仰天させたことで有名なドイツだ。
ドイツが独ソ不可侵条約を結んだのは、ポーランドに攻め入る際イギリス・フランス軍とソ連軍に挟み撃ちされないよう、あらかじめソ連を抱き込んどこうと考えたからだったよね。(このへんをチェック→https://jahistory.com/dokuso-fukashin-jyouyaku/)
で、実際に独ソ不可侵条約締結後ポーランドを侵攻、さらにフランスにも侵攻していく。
ただ、イギリスだけはどうしても攻め切ることができなかった。
イギリス侵攻をあきらめたドイツは、なんとイギリスの反対側、つまりソ連に侵攻しようという計画を立て始める。独ソ不可侵条約結んでるのに。
(まあ実は、独ソ不可侵条約を結んだ時からすでにドイツは「今はとりあえずソ連と協力しておくが、いずれはソ連もぶっ潰す!」と考えていたらしい。最初から裏切るつもりだったのだ。)
対するソ連側も、ドイツがソ連に攻めようとしているという情報を手にしたので、これを迎え撃つ体制に入ろうとした。
そんな折、日本が「ある理由」からソ連に接近していく。
日ソ中立条約が結ばれたワケ
日本は南進政策によって北部仏印進駐を行い、アメリカ、イギリス、オランダなどから貿易制限を食らっていた(ABCD包囲網でやったね)。
経済的にも、政治的にも孤立した日本は、ノモンハン事件で敵対したけれど、背に腹は代えられないということでソ連に接近する。
当然ソ連も、これまで良い関係ではなかった日本から急に「仲良くしようぜ!」と言われても「はいそうですね」とはいかず、最初は接近を渋っていた。
が、ドイツがソ連に対して攻めてくるという計画が分かると、ソ連は「日本と組んだらドイツへの牽制になるかもしれないな」と考えた。
こういった事情でソ連と日本は急接近、そして1941年7月に日ソ中立条約が結ばれることとなった。
日ソ中立条約は、おおざっぱに言うと
- お互い攻め入らないように
- どっちかが攻撃されたら、攻撃されてない国は中立でいてね
- 日本の満州、ソ連のモンゴルの存在はお互いに認めようね
というもの。
ちょっと待って!日独伊三国同盟はどうした!?
ここで「あれ?」と思った人はしっかり日本史を勉強しているね。
1940年に日独伊三国同盟を結んでいたの、覚えてるかな。
この字面だけで判断しようとすると、「日本・ドイツ・イタリアで同盟結んでんのに、そのドイツが攻めようとしてるソ連と日本が条約結んじゃって良いの?」と疑問が浮かぶよね。
なんでOKだったかというと、これは日独伊三国同盟の条文に「ソ連と条約結んじゃダメよ~」なんてものがなかったから。
日独伊三国同盟の主旨は「他国に攻められたら一緒に戦おうね」という内容だったんで、日本とソ連が条約結んでも別に問題はなかった、ってのを頭の片隅に入れておくといいね。
逆に、日独防共協定を破ったドイツは普通に反則だ(笑)。
あれは条文に「ソ連と勝手に条約結ばないようにしよ!」って取り決めあったからね。複雑怪奇です。