大津事件で責任を取らされた青木周蔵は辞任しちゃったよね。
せっかくイギリスがロシアを牽制するために、日本と仲良くなったのに残念だよね。
その後の意思をついだのが、陸奥宗光!
大津事件が1891年で翌年の1892年に外相に就任しているよ。このあたりの年号もしっかり覚えておきたいところだね。
じゃあ、今日は陸奥宗光についてみてみようか。
陸奥宗光は治外法権を撤廃!
今までかなり条約改正について学んできたけども、当時の日本の悲願は治外法権の撤廃、関税自主権の回復だったね。
欧米列強と肩を並べるためには、まず条約面で対等になる必要があった。
その第一段階が1894年の日英通商航海条約ね!
この条約で治外法権の撤廃に成功したの。
つまり、外国人が日本で犯罪をしたら日本の法律で裁けるようになったわけ。
ほら、1886年にイヤヤロ1886ノルマントン号事件があったでしょ?日本の法律で外国人を裁くってことは日本人にとって重要な事だったわけ。
イギリスはロシアの南下政策を防ぐために日本と仲良くしたかったから、こうやって日英通商航海条約を結んでくれたわけ。
この後、アメリカとも同様の条約を調印して雪崩的にドイツ、イタリア、フランスとも条約を結んだよ。
すごいのが、陸奥宗光が外相を務めている時に不平等条約を結んでいた、全15ヵ国との条約改正に成功するわけ!
陸奥宗光の条約改正への思い
陸奥宗光って坂本龍馬にも影響を受けてて、坂本龍馬が暗殺されたときに、
「龍馬さんの思いを継いで、欧米列強に肩を並べる国にせねば!」
と、自分を奮い立たせていたんだよ。
陸奥宗光はこう考えたの。
「1番強いイギリスと条約改正すれば、他の国も調印してくれんじゃね?」
ってね。
当時はイギリスが世界で最も影響力のある国だったから、イギリスに狙いを絞って条約改正に臨んだのね。
でも、当時の日本人はノルマントン号事件の嫌な思い出もあるし、外国人に対して良い印象を持っていなかったね。
だから、国会に対しても、
「開国以降、日本が発展したのは外国人のおかげだ。彼らを追い出すんじゃなくて、彼らとともに生活できるような日本を作っていくことが条約改正の一歩なのだ。だから外国人が安全に暮らせる日本にしよう。」
と、演説をしたのね。
こういった陸奥宗光の思いと勇気、行動、実行力によって条約改正が進んだんだよ。