前回は最上徳内の最初の蝦夷探索について見てきたね。
アイヌの人と交流して、さらにはロシア人と対話までこなした。
功労者として称えられたけど、ここで事件が起きる。
徳内は三度蝦夷へ。
最上徳内が蝦夷探索を終えたころ、幕府内では田沼意次が失脚し、松平定信が実権を握りつつあった。
そして松平定信が老中となると、田沼意次が行っていた蝦夷開拓を急遽中止される。
その後徳内はもう一度蝦夷に向かいしばらく住んでいたけど、正体がばれたりなんなりで結局本州に戻され、青森県に住み始めやがて婿入りする。
そんな折、蝦夷地で幕府側の商取引や労働環境に不満を爆発させたアイヌたちが蜂起した「クナシリ・メナシの戦い」が発生。
これを聞き心配になった徳内は、最初の蝦夷探索での上司に連絡。
一緒に蝦夷へ向かうことになった。
蝦夷探索の功労者たちが牢獄に!?
徳内とその上司が蝦夷につくと、すでにアイヌたちの蜂起は静まっていた。
せっかくなので、徳内たちは前回回れなかった蝦夷の地方に探索へ。
その後江戸にもどって調査書を提出した。
しかし、なんと幕府は「アイヌと交流しているのは危険だ」「勝手に余計な調査をするなんてダメだ!」と言って徳内とその上司を牢獄に入れてしまう。
二人を牢獄に入れた背景として、実は定信が「松平の息がかかった連中が嫌いだったから」という説がある。
まあ、田沼に並々ならぬ恨みを持ってたからね・・・。
上司は牢の中で死んでしまったが、徳内のほうはかつて奉公していたところの先生が助けてくれて、無罪を勝ち取ることができた。
その後は幕府に命じられて蝦夷探索を何度も行った。
7回目の蝦夷上陸では近藤重蔵の配下として参加し、択捉島に「ここは日本の領土だよ!」とする柱を立てたことでも有名だ。
年を取って蝦夷に行かなくなってからは、ドイツ人医師のシーボルトとも交流を持っていたというよ。
まとめ
徳内はまさに「蝦夷の専門家」であったんだね。
彼によって蝦夷の開拓が大きく前進したのは間違いない。