前回まで、「江戸四大飢饉」について一挙に見てきた。
度重なる飢饉によって、日本の農村は疲弊していってしまったね。
一方、江戸では飢饉以外にも事件が勃発。それが江戸三大火の一つ、明和の大火だ!
明暦の大火ほどではなかったけど・・・大被害。
明和の大火が起こったのは、1772年4月1日。
天明の大飢饉が起きる10年前くらい。
火元になったのは目黒の大円寺というお寺。
南西からの風で燃え広がって、麻布や京橋・日本橋といった武家屋敷がいっぱいあるところを焼け野原にしてしまった。
なんとかこの火事は抑え込むことができたけれど、その日の夕方、今度は本郷(今の東大があるあたり)からまたしても出火。周辺の街を焼いた。
次の日のお昼ごろに何とか消火が終わって、やっとひと段落・・・。
と思いきやまたまた出火。
今度は馬喰町(中央区あたり)から火が出て、日本橋地域は前日の火事とも相まって完全に焼けた。
死者は1万4700人、行方不明者も4000人を超えたという。
江戸の約1/3を焼いてしまった。
とはいえ、明暦の大火ほどの被害が出なかった。
これは、明暦の大火を受けて火事に対する対策を強化していたから。
町火消が大量配備されたし、建物と建物の間を密着させすぎないようにしたことで延焼をある程度防ぐことができたんだ。
原因はなんとお坊さんの「放火」
火事の後、いくら何でも火事が連発するのはおかしいだろう、と幕府は考えてた。
そこで、火付盗賊改(放火犯専門捜査官みたいなもの)が犯人探しを始め、一か月後、犯人が逮捕された。
この犯人というのが、なんと火元・大円寺の坊主。
放火した理由は諸説あるけど、どれもしょうもない理由。
この坊主は市中引き回しの刑を受けたのち、火あぶりで処刑された。
この処刑の直前にも、この坊主は「最近景気が悪いから、景気つけに数件焼こうと思ったら大火事になっちゃった~」なんてほざいていたらしい。
とんでもないサイコ坊主だ。浄土には行けないね。
まとめ
江戸において、放火というのはとても重い罪だった。
当時は建物は木造、密集していておまけに消火方法も壊すだけ。
一度火をつければ簡単に大量殺人ができてしまったからね。
しかし、火消や火避地などの対策が功を奏して、被害をある程度軽減することができたんだ。