前回は、宝暦事件について見てきたね。
竹内式部が朝廷に垂加神道、尊王論を持ち込んだことで公家がノリノリになってしまい、倒幕まで考え始めて弾圧される、という事件だった。
これで終わったかと思いきや、これには続きがあった。
それが、明和事件だ。
山県大弐(やまがただいに)が尊王論を唱える
甲斐国(山梨県)出身の山県大弐(やまがただいに)は、医学や儒学を京都で勉強しているときに「尊王思想」を抱くようになる。
山梨に帰ってきてからはその尊王思想を人々に説いて回った。
その後江戸に医者として出向き、大岡忠光らに仕えたけど、忠光が死んだあとは私塾を開いてそこで尊王論や兵学、儒学を教えるようになる。
弟子が発端で死罪に!?
山県の私塾には、群馬県にある小幡藩から藤井右門も門弟としてやってきていた。
そんな折、小幡藩のゴタゴタが発生、そのとばっちりで門弟の一部が幕府に「ウチの塾の先生、なんか尊王思想とかいって幕府倒そうとしてますぜ」とチクられ、藤井右門共々山県は死刑に処されてしまう。
さらにとばっちりで、宝暦事件の時追放処分になっていた竹内式部は、危険思想の持ち主だからと流刑に処される。
まとめ
こうして、幕府は尊王思想をもつ人を徹底的に弾圧していった。
ところで、実は山県や竹内式部らが尊王思想を抱いたのには、幕府が指示していた朱子学に「ある教え」があったからなんだ。
次回はその朱子学の「ある教え」について見ていくよ。