今回は、山名氏清の蜂起である明徳の乱について説明するよ。
明徳の乱の内容、山名氏清はどういう人物だったのか、語呂合わせなどについて順番に説明していくよ。
明徳の乱とは?
明徳の乱とは、1391年の山名氏清の蜂起のことを言うよ。
山名氏清は、3代将軍足利義満に挑発されて、甥の満幸と共に京都に兵を送ったんだ。
しかし、山名氏清は義満に敗れてしまうんだ。
その結果、11ヵ国あった山名氏一族の領国は、但馬・伯耆・因幡の3ヵ国に削られてしまったんだ。
山名氏清とは?
じゃあ、この明徳の乱を起こした山名氏清とはどういう人物だったんだろう。
山名氏清は、守護大名の一人で、
中国・近畿に山名一族合わせて11ヵ国の領国(丹波・丹後・因幡・伯耆・美作・但馬・和泉・紀伊・出雲・隠岐・備後)を持っていたんだ。
当時日本には領国が60余りあって、この山名氏一族の11ヵ国はこの6分の1にあたると言うことから、
山名氏清は六分の一殿と呼ばれることもあったんだ。
山名氏一族は明徳の乱の後、領国が3か国にまで減ってしまい、勢力は衰えていくよ。
明徳の乱の語呂合わせは?
ここで、明徳の乱の語呂合わせを紹介するよ。
年号も合わせて覚えておいた方が、並び替えのときとかに役立つからね。
一味悔い(1391)なし 明徳の乱
山名氏清は明徳の乱で敗死してしまったけれど、悔いはなかったということだね。
是非語呂合わせで年号も覚えてしまってほしい。