さて、日清修好条規の目的ってなんだったっけ?
そう朝鮮に対して優位性を示すことだね。朝鮮は以前の日本のように鎖国政策を取っていたから、日本は相手してもらえなかったわけだ。
朝鮮にとって清は宗主国だから、清と対等条約を結べば日本も朝鮮に対して優位な立場になれると思ったんだよね。実際は突っぱねられたわけなんだけども。
そんな朝鮮に対して、武力で攻めちゃおうぜ!ってのと、いやいやまだまだ内治優先でしょ。
って喧嘩から、下野しちゃったのが明治六年の政変だね。
明治六年の政変とは
まず前提ね。
征韓論を唱えた人= 西郷隆盛・板垣退助
内治優先論を唱えた人=大久保利通・木戸孝允
征韓論 → 武力で朝鮮を開国しようぜ!
内治優先論 → いやいやまだまだ国内の改革優先でしょ?
ってことだね。
で、征韓論の人たちは内治優先派の反対に押し切られて、一斉に下野しちゃったんだわ!
下野ってのは、官職を辞めて民間(一般)に下るってことだよ。
「お前らとは考え方が合わねぇから、辞めてやるよ!!」
ってことなんだわね。
この征韓論ってのはいきなり始まったわけじゃなくて、江戸時代からあった思想なんだよ。古事記や日本書紀に日本が朝鮮に対して、支配権を持っていたって記述があったね。
きっかけはそれなんだけども、実は明治に入るあたりに決定的な出来事があったんだよね。
江戸時代って対馬藩が、朝鮮と貿易していたでしょ?
で、明治政府に変わったから、
「今後は対馬藩じゃなくて、明治新政府になりますからね~廃藩置県しますんでね~」
と、優しく御挨拶に伺ったところ、
「今までの形式と違う。無理、帰れ」
と朝鮮に拒絶されちゃうんだよね。以降、朝鮮ってのは鎖国を理由に日本に対して強い態度を取っているから、なんやなんや穏やかじぇねぇなーやっちまうぞ!って意見が飛び交うわけだね。
いきなり、征韓論が出来上がったわけじゃなくて、徐々に熟成していったわけなんだわ。
流れとしては、明治六年8月に一旦、西郷隆盛を大使として朝鮮に赴き交渉することが決定したんだけども
9月に帰国した岩倉具視や木戸孝允、大久保利通が「時期尚早」として、征韓論を退けるのね。で、岩倉具視は当時太政大臣を臨時で務めていたから天皇が岩倉具視の意見をすくって、征韓論は敗れる形になるわけ。
これ以降、西郷隆盛や板垣退助は下野したから、大久保利通が政権を握る形になるよ。