前回は「由井正雪の乱」を見てきたね。
家光の武断政治が引き起した「武士大量リストラ」で怒った牢人たちが、軍事評論家の由井正雪を筆頭に起こそうとした乱だった。
この乱は結局未然に防ぐことができたけど、幕府側としても「牢人を野放しにしていたらヤバいことになるな」と実感したんだ。
そこで、なんとかして牢人を増やさないようにしようと工夫を始めるんだ。
その最たるものが「末期養子の禁緩和」。
どういうものか詳しく見ていこう。
末期養子の禁緩和って?
そもそも末期養子ってなんだろうか。
末期養子は、「後継ぎのいない武士が、その死に際になって急に養子をとろうとすること」だ。
江戸時代初期、武家を子供に継がせる場合は、あらかじめ幕府に登録しておく必要があった。
この登録が行われないと「跡継ぎ」として認められず、その武家は「取り潰し」を受けることになってしまう。
末期養子は、「跡継ぎのいない武士が死に際になって取る養子」だから当然幕府への登録が間に合わない。
このルールのせいで、たくさんの大名が次々に取り潰されていったんだ。
それで大量の牢人が生まれ、由井正雪の乱など「幕府を転覆してやろう」という反乱がおきることになってしまう。
ところで、なんで幕府は末期養子をダメだとしていたんだろう。
一番大きな理由は、「幕府が大名の力を削りたかった」から。
家光の時代までは支配体制が確立できていなかったから、幕府はとりあえず反乱を起こされないために「強い大名」を消しておきたかったんだね。
事故とか急病で死ぬ、っていうのは江戸時代結構あることだったから末期養子を取れないことは大名にとって大きな足かせとなっていた。
末期養子を禁止することによる大名統制は一応うまくいったんだけど、その副作用として牢人が生まれてしまった。
結局、末期養子を禁止して武家を取り潰す、というのは結果的に幕府にとってマイナスになってしまうことが、家綱の時代で明らかになった。
だから家綱とその家臣団は「末期養子の禁」を緩和したんだ。
禁緩和が行われたのは慶安4年(1651)。
・「当主の生存」
・「当主が本当に養子をとろうとしているかどうかの意思確認」
・「17歳以上50歳未満」
を条件として、これを満たしていれば末期養子を取れるようにした。
まとめ
幕府は末期養子の禁を緩和することで改易を防ぎ、牢人が大量に発生することを抑制しようとしたんだね。