前回は、松平定信が行った善政「囲米&七分積金」について見てきたね。
囲米で全国の藩に義倉の設置を促し、江戸では七分積金によって多数の米やお金を蓄えた。
こうした飢饉対策が功を奏し、天保の大飢饉では天明の大飢饉のような大被害を出さずに済んだんだったね。
今回話す「旧里帰農令」は、天明の大飢饉や天明の打ちこわしを受けて出されたもの。
どんな意味を持っていたのか、詳しく見てみよう。
旧里帰農令は農村に百姓をもどすため
旧里帰農令は、その名前の通り「かつての自分の故郷にかえって農業してちょうだいな」という趣旨の令。
と言ってもこれは強制力のある法令ではなくて、あくまで奨励するものだった。
そもそもなんでこんな令が出されたのか。これには、天明の大飢饉が関係している。
天明の大飢饉で農村部は壊滅的な打撃を受けた。
米は取れない、でも年貢は変わらず取られる・・・。
このまま農村にいても貧乏で死ぬだけだ!と考えた農民たちは、江戸や大坂など都市部に流れ込んできた。
しかし、これをやられてしまうと幕府としては困るわけだ。
年貢である米を作る百姓がいなくなってしまえば、当然幕府の税収は減る。
これ以上財政難を拡大させたくない定信は、何とかして流れ込んできた農民たちを農村部に返したかった。
そこで旧里帰農令を出して、「資金を少しあげるから農村に戻って米作ってくれない?」と言ったわけだ。
まとめ
旧里帰農令はあくまで奨励するだけの令だった。
資金も多少ながら援助してくれるしね。
だけど、なかなか改善されなかったこともあって江戸三大改革の最後「天保の改革」では「人返しの法」という強制的に農村へ返す法律が出ることになるよ。