前回は、鎌倉幕府の重要な職「守護」と「地頭」について見てきたよね。
「守護」は国を守る警察役として、「地頭」は公領や荘園の管理人役として送り込まれたんだった。
で、今回はある人物のご紹介。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれないけど、鎌倉初期の様子が分かるのはこの人がいたからとも言えるとっても重要な人だ。
その名は九条兼実(くじょうかねざね)
九条兼実(藤原兼実ともいう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期に生きた公家だ。
公家は公家でも「摂関家」に位置する人で、要するに公家の頂点だ。
(めちゃくちゃ複雑な事情があったんだけど)頼朝と協力関係にあって、頼朝が力をつけていくのに比例して順調に摂政・関白・太政大臣と重役を歴任していく。
この九条兼実って人は非常に見識の深い人で、この人が書いた日記がものすごく重要になってくる。この日記については後ほど。
ただ少々お堅い人柄だったせいで、朝廷内やゆる~い雰囲気に慣れちゃった他の公家からはあまり評判が良くなかった。
また兼実はしきたりを重要視する人だったんだけど、当時の天皇である後鳥羽天皇の考えとは真逆。後鳥羽天皇は独自の政策を打ち出したかったもんだから兼実とは真っ向から対立する形になってしまった。
結局、後鳥羽天皇や公家・朝廷との対立、おまけに頼朝の策略もあって周りから総スカンを食らい、失脚してしまうんだ。
「玉葉」なくして鎌倉時代は語れない⁉
そんな兼実が、40年間もの間描き続けた日記がある。
これこそ「玉葉(ぎょくよう)」だ。
鎌倉幕府ができる前後は、源平の争いやら院政から武家政治への移り変わりやらでまさに激動の時代。
そんな複雑な時代を40年間分も書き連ねてある日記だから、当然非常に重要な史料になる。
兼実はすっごく博識だから、文章も非常に明快で当時の様子がはっきりわかることでとても価値が高いんだ。
国語の古文の授業でも出てきたりするかもしれないね。