弘安の役について分かりやすく説明!神風とは? 語呂合わせも紹介

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前回は文永の役の前に蒙古襲来に備えて設置され、文永の役の後に強化された異国警固番役について学んだね。

 

今回は文永の役の後に起こった2度目の蒙古襲来である弘安の役について説明するよ。

 

文永の役で撃退されたけれど、あきらめずに2度も日本にやってくるなんて図太いね。

弘安の役とは?

弘安の役は、前回の文永の役から8年後、1281(弘安4)年6月~閏7月に起こった2度目の蒙古襲来の事なんだ。

 

このとき、モンゴル軍は東路軍・江南軍に分かれて来襲したんだ。

 

忻都・洪茶の率いる東路軍は、元・高麗・江北の兵4万が参加し、

宋の降将氾文虎の率いる江南軍は、降伏した南宋の水軍を中心とする江南地方の兵が参加し、10万の兵がいると称していたんだ。

 

まず、忻都・洪茶の率いる東路軍は、5月に朝鮮の合浦を出発し、

対馬や壱岐を侵略した後、6月に博多湾へと攻め込んだんだ。

 

しかし!日本軍は8年前の文永の役を受けて、

蒙古襲来に対して十分に備えていたんだ。

 

だから、攻め込んできた東路軍に対し、日本の武士たちは奮戦して敵の上陸を阻止することが出来たんだ。

 

このように日本に上陸を阻止されてしまった東路軍は、いったん肥前の鷹島へと逃げて、江南軍が到着することを待つことにしたんだ。

 

そして、寧波を出発した江南軍は7月になり日本近海に姿を現し、東路軍と合流。

これで、総攻撃の態勢が整い、日本に攻め込む準備ができたんだ!

 

…しかし、モンゴル軍は日本に攻め込むことが出来なかったんだ。

 

というのも、東路軍と江南軍が合流したまさにその時、大型の暴風雨が元の大船団を襲ったんだ。

この暴風雨によって、4,000隻あった元船のほとんどが沈み、兵たちは溺死してしまったんだ。

 

このとき日本軍は、この暴風雨がおさまるのを待ってから、鷹島に攻め込み、多くの捕虜を得る事ができたんだ。

 

一方で、暴風雨に襲われたモンゴル軍は、4分の3を失うことになってしまい、

無事に帰った者は3万人に満たなかったと言われているんだ。

神風とは?

日本軍は、暴風雨や、文永の役後の対策などにより、モンゴルに日本征服されずにすんだんだ。

 

ところで、襲来に際しての暴風については古くから神風と呼ばれ、

日本は神が守っているという「神国思想」の根拠ともなっていたんだ。

 

弘安の役のときは、大型の台風があったということの認識で説が一致しているんだけど、

文永の役の時には、暴風雨はなかったという説もあるんだ。

 

 

弘安の役の語呂合わせを紹介!

弘安の役は1281年に起こったね。

元号を覚えておくと試験の並び替えの時に少しは役に立つかもしれないから、語呂合わせを紹介しておくね。

いつも敗(1281)退 元の軍

 

結局モンゴル軍は2回とも日本征服を成し遂げることは出来なかったんだよね。

 

 

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