今回からは鎌倉文化の、芸術分野。
絵画とか工芸品とかいろいろあるんだけど、その中から今回は「彫刻」をピックアップ。
運慶・快慶の「金剛力士像」を中心に、試験で聞かれやすい所を抑えていくよ。
運慶・快慶って?
よく「運慶・快慶」と1セットにして語られることが多いけど、この2人特に血のつながった兄弟というわけでも親子というわけでもない。
この2人はどちらも、“慶派”と呼ばれる仏師集団(仏像を作る職人集団)のいち流派に属している点で共通している。
だからまあ、この2人の関係は仲間というか、兄弟弟子みたいなもんかな。
「運慶・快慶」と1セットにして語られる理由は、なんと言っても東大寺南大門の金剛力士像の制作に両者が関わったからだ。
東大寺は奈良時代に作られたのに、なぜ・・・?
ここで一つ疑問が浮かんでくる人がいるかもしれない。
「東大寺って奈良時代に作られたのに、なんで鎌倉時代になって金剛力士像を作ろうと思ったの?」ってね。
これには理由があって、
実は東大寺、一回派手に燃えてしまってるんだ。
なんで燃えちゃったか覚えてるかな・・・?
そう、平氏による南都焼き討ちだね。覚えてたキミはスゴイ!
(忘れてた・知らなかった人はココを見てね→https://jahistory.com/jijyou-jyuei-no-ran3/)
平氏に対抗する寺社勢力を削るために興福寺や東大寺に火をつけてしまった。
史料によると、風向きが悪かったか風が強かったかで、平氏も想定していなかった大炎上になってしまったらしく、
寺どころか奈良の主要部分にまで火の手が及び多くの死者を出してしまったという。
この南都焼き討ちの影響で、東大寺の素晴らしい建造物も大部分が消失するという甚大な被害を受けた。
実は奈良の大仏こと「東大寺盧舎那仏」も、火によって胴体部分を焼損する被害を被っている。
で、鎌倉時代に酷い有様になってしまった東大寺を復興しようと言う動きが活発になった。
その際に呼ばれたのが、当時既に仏師として名を挙げていた運慶や快慶だったってわけ。
東大寺南大門の金剛力士像(仁王像)
仁王像は、東大寺の南大門の左右に2体配置されている。
まずパッと目に付くのは表情だよね。
上のは仁王像の「阿形」と言われる。
口を開け、怒りをあらわにしている様子が伺えるね。
下の方は「吽形」。
口を引き結び、静かな怒りを内に秘めた様子が見て取れる。
次に「阿形」の右手、「吽形」の左手が持っている棒状の物、わかるかな?
これは金剛杵といって、どんな物でもブチ壊せる最強武器。
この金剛杵を振り回すためか、仁王像は筋肉隆々に作られてるよね。
金剛力士像は、大仏様のいる寺の守り神として門に配置され、仏敵や邪悪なものは金剛杵によって粉砕される。と言うことになっている。
この金剛力士像を作ったのが、運慶・快慶率いる仏師たちだったわけだ。
運慶が制作総指揮をして、快慶や運慶の子供・湛慶をはじめとする実力派仏師たちその他大勢で作り上げた。
その中でも、快慶が金剛力士像の完成に一番大きな功績を残したんじゃないかと推測されている。
ちなみにこの金剛力士像、高さ8.4メートルもある巨大な像なのにも関わらず、なんと2か月程度で作り上げられた。
もちろん多くの人員を動員したからってのもあるんだけど、このスピーディな制作には“寄木造”という作り方が関係している。
簡単に言うと寄木造は「立体ジグソーパズル」みたいな感じ。
小さめの部品を作って、それを組み合わせて巨大な像を作るという方法ね。
一本のデカい木から削り出して作るとなると凄まじい時間がかかるし、一本の木から作ると乾燥などでゆがみとか割れとかも出ちゃうから、
寄木造は巨大な像を早く作るにはうってつけの技法だった。
といっても、この東大寺の金剛力士像は一体で部品が3000個もあるらしい(笑)。
寄木造に人海戦術を駆使したと言っても、2ケ月で作り上げちゃうのはすごいよね~。