今日で条約改正も一段落ね。
今回は小村寿太郎なんだけども、途中大事な日清戦争や日露戦争という一大イベントはあるんだけども、
まずは条約改正だけをだーっといきますんので、時代の飛びはしょうがないね。
日本史ってのは、政治だったら政治、外交だったら外交って分けて理解していって、その後につなげていくイメージだよね。
だから年号って覚えておくと便利なわけ。
というわけで、日清戦争や日露戦争はまず飛ばして、小村寿太郎の関税自主権回復を見ていこう。
小村寿太郎は関税自主権の回復
まずね、ちょっと時代飛んじゃってるんだけど日露戦争ってのは大事な出来事なのよ。
人類史上、有色人種が初めて白人様に勝った戦争だからさ。
「あれっ?日本ってなかなやるんじゃね??」
と、世界に認めさせた戦争だったわけね。
結局、ロシアから賠償金を取ることはできなかったんだけども、これを機に小村寿太郎は条約改正に乗り出したわけ。
小村寿太郎は1911年にアメリかと日米通商航海条約を結んで、関税自主権の回復に成功したのさ。
強いアメリカが条約を結んでくれたわけだから、他の諸外国も同じように条約を結んでくれたんだよ。
小村寿太郎の努力
日露戦争のところもでも詳しくやるけども、小村寿太郎はポーツマス条約の時の全権だったのね。
小村寿太郎は交渉に向かう前から、ロシアから賠償金を取るのは難しいってわかってたの。
だって、ロシアは戦力をかなり減らしたとはいえ、まだまだ戦える状態だったし、日本はこれ以上戦力出せなかったからね。
でもさ。日本ってすごい状況だったじゃん?
臥薪嘗胆なんてスローガン抱えて、どうにか憎きロシアをやっつけてやろうぜ!!って気概だったのよ?
それが賠償金ゼロだったらどうよ??
・・・。うん。キレるわな!
日本の右翼団体なんかはこぞって小村寿太郎を責めに責めて、家に石投げたり散々だったわけよ。
それが原因で小村寿太郎の奥さんなんかは精神病になっちゃうし。
だから、小村寿太郎は関税自主権の回復に対して物凄い努力したんだって。交渉に丸1年かかったしね。