明治時代

小御所会議で徳川慶喜の辞官納地が決定!

更新日:

慶喜のウルトラC!

大政奉還で薩長組に武力でもって討幕する前に、なんとか難を逃れたよね。でも、薩長は許さないよ。

江戸幕府を潰して日本全国を統一する新政府の樹立こそが新政府の目指しているところだから、慶喜が大政奉還後もでかい顔しているのが許せなかったわけ。

そこでくりだしたのが、辞官納地の決定!

それが決まった小御所会議についてみてみよう。

 

小御所会議とは?

 

小御所会議ってのは、1867年12月に京都の小御所で行われた会議だね。

ちょっと前に王政復古んの大号令が出されてさ、三職ってのが設立されたでしょ?総裁・議定・参与ね。

それらの役職についた人たちによって、行われた最初の会議。

この小御所会議は王政復古の大号令が出されてすぐに開かれた会議なんだよ。
薩長や岩倉具視らが討幕の密勅を手にしたのは記憶に新しいと思うけど、

こいつらが中心となって徳川慶喜の辞官納地を決定したわけだね。

公議政体論を事実上追い出す

この小御所会議もすんなりいったわけではないのね。

明治天皇が出席してたけど、若干16歳だったから薩長や公家が中心となってたわけだよね。

それに対して、土佐藩なんかは公議政体論ていって、雄藩連合が新政府の主権を握ることを主張していたのね。その考えでは将軍を議長として新しい機関を作ることだったの。

こいつら割と熱心に徳川慶喜推しだったから、「慶喜には今までの功績があるでしょ」って主張がすごかったんだよね。小御所会議には慶喜呼ばれなかったんだけど、これ聞いたら喜ぶよ。
ちなみに山内豊信覚えてる?土佐藩主ね。

こいつが徳川慶喜に大政奉還を進言したくらいだから、佐幕派なんだわ。

坂本龍馬や中岡慎太郎も土佐藩だけど脱藩してるからね。

 

結局、薩長の意見が通って慶喜の辞官納地が決定したわけだね。

-明治時代
-,

Copyright© 大学受験の日本史を極めるブログ , 2019 All Rights Reserved.