今回からは、化政文化期の「俳諧」分野を見ていこう。
化政文化を代表する俳人といえば、「小林一茶」。この人だろう。
一茶は、他に類を見ないような非常にユニークな人だったんだ。詳しく見ていこう。
小林一茶の家庭環境はツライことばかり
一茶は長野県の農家の長男として生まれた。
しかし3歳で母親がなくなってしまい、8歳のころからは継母によって育てられることに。
しかし、どうしてもこの新しいお母さんになじめなかった一茶は14歳で江戸に奉公へ。
奉公先を転々とする中で、だんだんと俳人として生きていく夢を持ち、25歳で俳諧家に弟子入り。
その後36歳になるまで西日本をゆるりと回って旅した。
転機となるのは39歳、帰省してから。
一茶は病気の父を看病したんだけど、努力むなしく亡くなってしまう。
このあと、継母と一茶の間に泥沼の遺産相続争いが勃発。なんと12年間もの間争うことになる。
また、妻は生涯何人もいたんだけど、子供には恵まれなかった。
こういった不幸な出来事が俳句に影響が出てくる。
小林一茶の俳句
一茶は、その生涯で非常に多くの句を作った。なんと22,000句近くも作ったという。
芭蕉で1,000、与謝蕪村で3,000くらいだからその多さがわかるよね。
幼少の頃の継母との不仲、その精神的なすれ違い、そこから生まれた「自虐的」な句風、加えて農家出身ならではの目線に基づいたシンプルな作品が特徴だ。
代表的な作品は、
うまさうな 雪がふうはり ふわりかな
これがまあ 終(つい)のすみかか 雪五尺
めでたさや 中位なり おらが春
・・・などなど。
三つ目の作品は一茶の俳句集である『おらが春』にも収録されている。
現代の僕らでも非常にわかりやすい、心の根っこの部分をごくごく簡単な言葉で言い表していることがわかるよね。
まとめ
おまけ話として、一茶は非常に性欲の強い人だったらしい。
ある一茶の奥さんは性交渉のし過ぎで亡くなってしまったという・・・。