人物シリーズ。
虎の門事件で辞任した山本内閣のあとに組閣したのは清浦奎吾(きようらけいご)だ。1924年1月の話だね。
軍に力があった山本権兵衛が退陣した後は、どんな人が総理大臣になったと思う?
想像してみて・・・?
実は、この清浦奎吾は「貴族院・官僚勢力」が組閣したんだ。この清浦奎吾は貴族院の後押しで内閣総理大臣になったから、閣僚も貴族院中心で組閣したのね。
組閣ってそもそもだけど、内閣総理大臣がその他の大臣を任命していくことさ。
政党出身の人間は入れないで貴族院出身の人間から採用していったって事。
それが超然内閣だ!という事で批判されちゃったわけだね。
ちなみに黒田清隆の時の超然主義について知りたい人は『黒田清隆の超然主義は理解しづらいかもしれない』の記事を読んでみてね。
清浦奎吾の超然内閣とは?
そもそもの超然内閣とは、
議会の支持無しに組閣する内閣
の事だね
今の日本だと、選挙やって議員を選んでさ。議員はだいたい政党に属してるから、1番票を取ったのが与党になるじゃん?
で、与党の中から総理大臣決めるじゃん?総理大臣がその他の大臣を任命して組閣して内閣を作るじゃん?
これを政党内閣って言うんだけど、つまり、超然内閣ってのはその逆。
清浦奎吾は貴族院の後押しで内閣総理大臣になって、その他の大臣も貴族院から任命していったから、超然内閣と言うわけ。
非政党内閣とも言われるけどね。
明治初期の頃は議院内閣制をやっているはいいものの、結局薩長出身のやつらが勝手に内閣作ってじゃねぇか!
という事で超然主義が批判されたわけ。
この清浦奎吾内閣も超然内閣だったのさ。
第二次護憲運動を引き起こす
もちろん、政党に属している人達からしたらブチ切れ案件さ。
立憲政友会・憲政会・革新倶楽部
の3つは貴族院みたいな生まれながらの身分でなれるような特権階級の超然内閣を批判しまくって
護憲三派を結成してわけだね。
もうさ、貴族院をどうにかしようよ!政党が内閣やろうよ!という運動が第二次護憲運動さ。
君たち大学受験の日本史組で難関大学受験者は
憲政会(加藤高明)
立憲政友会(高橋是清)
革新倶楽部(犬養毅)
ってところまでちゃんと暗記しようね。