理由のない苦しみはとても辛いよね。
たとえば担任の先生がとても嫌な人だったとしよう。そんなことになったら毎日が憂鬱だ。
しかもそれがとても辛いのは「その先生が担任でなくちゃいけない理由がない」ことだ。
別に隣のクラスの先生が担任でもよかったはずだ。隣の隣のクラスの先生が担任でもよかったはずだ。
そこには合理的な理由なんてない。この理不尽さが嫌さ加減をさらに悪くする。
こういった苦しみを和らげる方法は勝手な理由を付けることだ。
「世界にはさまざまな人間がいるってころを人生の早い段階で神様が教えてくれたんだ」とか
「担任の先生を上手く扱えるようになればこれから人間関係ではこわいものなしだ。これは試練だ!」
とか。
今回みていくのも大体そんな感じ。
日露戦争後、賠償金を貰えなかったから(ここでやったよ)、日本人はとても苦しんだんだ。
しかも賠償金がもらえない理由なんて国民にはわからない。そこでやるのはただ一つ。
国が理由をつけて苦しみや怒りを鎮めてあげること。
「国のために尽くすことはよいことである。あなたは日露戦争のための増税で国のために尽くして苦しんでいる。それはとてもいい行いだ」
「勤勉と節約はいいことだ。贅沢は悪いことだ。だからお金がなくて苦しくてもそれはよいことだ」
とかね。
それじゃあ、本題にはいるよ!!
桂園時代とは?わかりやすく なぜ交互なのか
1901年に伊藤博文が内閣総理大臣を退陣した後に総理大臣になったのは桂太郎(かつらたろう)だった。
でも桂太郎は伊藤博文のように強く国をまとめる能力をもっているわけではなかった。
そこで官僚や陸軍とコネクションをもっている桂太郎と立憲政友会に属する西園寺公望(さいえんじきんもち)を交互に総理大臣にすることで、
それぞれの足りない部分を補おうとしたんだ。
西園寺公望は中江兆民(なかえちょうみん)と「東洋自由新聞」をつくったこともある人。
西園寺公望はいわゆるリベラル(わかんたんにいえば、国が上から指示を出すんじゃなくて、国民みんなで国をつくっていこう!という考え方)な考えもっていたんだ。
このように軍なんかと仲のいい桂太郎と、リベラルな西園寺公望が交替交替で政権をもった時代は
桂園時代(けいえんじだい)!!!!
1901年から約10年間って覚えておこう。
日露戦争後の財政難 戊申詔書の背景
日露戦争後に賠償金がもらえなかったから日本政府はとても苦しい状況に陥ってしまったのだった。
せっかく国のために尽くしたのになにもいいことなんてないじゃないか。
せっかく増税も文句をいわずに払ったのに、それだったら自分のために使えばよかった。
国に尽くすのをやめたくなってしまうよね。
そんなこんなで日露戦争後、個人主義とか享楽的傾向が見られたんだ。
そこで国がやったのは
戊申詔書(ぼしんしょうしょ)!!!!
家族主義を強調して、節約と勤勉を国民に叫んだよ。
そうすればまた国がまとまって強くなるから。
これが戊申詔書の背景。
戊申詔書は1908年に発布されたよ。
これをやったのが、
第二次桂内閣(だいにじかつらないかく)!!!
思い出してみよう。西園寺公望が「国民がみずから国をつくっていこう!」という思想で、桂太郎がその逆!!
だから、桂太郎が「国民は国に尽くせ!」っていうのをやったんだね。
されに第二次桂内閣がやったのが、
地方改良運動(ちほうかいりょううんどう)!!
これは1909年から行われたよ。
日露戦争後、日本は不況でたいへんだったんだ。
一番大変だったのが地方!!!
だから疲弊した地方自治体の財政再建と農業復興を目標に講習会などが行われたよ。
こう書くと聞えがいいかもしれないけれど、もちろん国民は国に尽くせよ的なことも一緒に目標としていたんだ。