前回、河竹黙阿弥は江戸時代では「二代目・河竹新七」として活動していた、という話をしたよね。
しかし、教科書などに載っているのは「河竹黙阿弥」。
なぜこのような改名をしたのか。
その謎に迫っていくよ。
明治維新後の「演劇改良運動」
明治時代に入ると、「歌舞伎は演劇として不適切だ!」とする考え方が提唱されるようになる。
これを「演劇改良運動」という。
河竹が作っていたような「世話物」などは荒唐無稽だと酷評されるまでに至る。
というのも、明治維新によって文明開化(西洋の文化が入り込んできて、制度や文化が大きくへんかすること)の世の中になっていたのが大きな理由。
文明開化期の明治では「ヨーロッパこそ至高!ヨーロッパ風にしておけば万事OKだ!」という極端な考えまで出ていたんだ。
歌舞伎もその影響を受けて、西洋の劇に触発された人々が「歌舞伎はもっと高貴で道徳的な内容にするべきだ!」といわれてしまう。
こうした一連の運動で批判されたことにうんざりした河竹は、「うざい!ごちゃごちゃいうならもう何もしねえ!」といって「黙する」ことにした。
そこから黙阿弥という名前を付けたんだ。
まとめ
「黙阿弥に改名したってことは、その後の活動はしなかったのかな・・・。」と思いきや、実は黙阿弥ただ黙っていたわけではなかった。
演劇改良運動があらかた失敗に終わって終息したのを見計らって、また表舞台に登場したんだ。
生涯作品作りに尽くしたという。